BACK/ INDEX



Chapter V

   躊躇いのラプンツェル  22


杏が出て行った後の会議室は妙な空気に包まれていた。
ヒソヒソと言葉を交わす役員たち。だがしかし、誰一人として正式な発言を求めようとはしない。
井川自身も、しばらくの間、ここで何を言えばよいのか思いつかなかった。
彼女の姿が消えたドアから目の前に視線を落とせば、そこに積まれていたのはおびただしい枚数の書類の束だ。それはかつては義父である故、継春が一手に握っていたもので、彼の死後に杏や義母、そして嫁いでいった彼女の姉たち、いわゆる桐島のファミリーが当面分割して所有することになった巨額の資産の一覧だった。

桐島家の全面的な支援を取り付けた井川を追い落とすことは最早不可能に近い。そう判断した一部の役員たちの攻勢は、手のひらを返す様に鳴りを潜めた。と同時に、この度の杏が取った行動の真意がはっきりと分かるまでは、当面迂闊に動くことはしない方が良いという警戒心も働いたようで、井川とその側近たちへの問責及び解任という話はいつの間にか立ち消えになったのだ。
想定外の杏の登場で、形勢は一気に逆転した。
井川は内心ほっと胸をなでおろす。
正直なところを言えば、今回はもしかしたら負けるかもしれないという弱気な思いがあったことは否めない。業績の不振だけならば彼にもまだ打つ手立てはある。しかし役員たちの反乱と同時進行ということになれば、ただでさえ脆くなっている足元から掬われかねず、圧倒的に不利な状況に追い込まれることは避けられなかっただろう。いかに彼が全力で抗い策を弄しても、それらのどちらをも沈静化できない可能性が捨てきれなかったからだ。
取りあえずここで役員たちの離反を抑えることができれば、すぐに業績の立て直しに取り掛かれる。杏がくれたこのチャンスは、まさしく起死回生への足掛かりとなるはずだった。

その後、厳しい議論はあったものの、臨時の役員会は現在の体制の堅持という方針で決着した。
散会後、書類を手に部屋を出ると、近づいて来た秘書からまだ杏が社内にいることを伝えられた井川は、自分のオフィスへと急ぐ。
彼女が持参したものをぱらぱらと見てみたが、中には本当に彼女だけでなく義母や義理姉たち名義の資産も含まれていて、井川は戸惑っていた。父親から相続した遺産のほぼすべてをそっくり差し出すなんて、一体杏は母親や姉たちをどうやって説得したのか皆目見当もつかなかったのだ。

「杏?」
オフィスに戻ってきた井川は、入口に背を向けてソファーに座っている杏を見て真っ先に声を掛けた。しかし彼女は身動き一つしない。よくよく見れば、背もたれから少しのぞいている頭が前後に揺れ、舟を漕いでいた。
井川は今さらながらも足音を忍ばせて彼女の前に回り込むと、座った姿勢のままでうたた寝している妻の前に膝をつき、顔をのぞきこんだ。
少し痩せたか?
初めて会った小学生時から変わらない、そばかすの浮いた白い肌に化粧気はなく、わずかに口紅を塗っているだけのようだ。そのせいで、近くで見ると目の下にくっきり隈ができているのがはっきりと分かる。
少し鬱陶しげに目に掛かっている前髪をそっとかき上げてやると、その拍子に杏が目を覚ました。
「あ、あれ?隆裕さんいつの間に?」
自分の額に井川の手が触れていることに気付いた彼女は、目をぱちくりした。
「ああ、ごめんなさい、私ったらオフィスでうたた寝しちゃうなんて。で、でもちょっと時間があったし窓から入る日差しが気持ちよかったし……」
慌てた様子でしどろもどろに言い訳をする杏の目の下の隈に触れながら、井川は問いかける。
「これはどうしたんだ?あまり寝ていないのか?」
久々に感じる井川の手の温もりに、杏はなぜだか急に泣きたくなった。
「そ、そんなことは。あ、でもここ数日はちょっと夜更かししたかも」
本当は彼が出ていってから、ぐっすり眠れた夜などなかった。早い時間にベッドに入っても一向に訪れない眠りに、思考はどんどん悪い方へと流れて行く。体のためにも眠らなければと思えば思うほど寝付けなくなり、少し眠ったと思えばすぐに目が覚める悪循環をどれだけ繰り返したことか。浅い眠りの中で、彼を呼びながら目覚めた朝の寂しさを、彼女は一生忘れることはないだろう。

「杏、先ほどの、これのことだが……」
井川は側のテーブルに置いていた、杏が持参した書類の束に目をやった。
「何でこんな無茶なことを?」
その言葉に軽い非難の響きを感じた杏は、たちまち表情を曇らせる。
「ご、ごめんなさい。やっぱり押し付けがましかった?迷惑だった?」
急におどおどし始めた杏の両肩に手を置いた井川は、そうじゃないと首を振る。
「そんなことはない。いや、今回に関しては本当にありがたかった。だが、こんなことをしてしまったら、君たちのこれからの生活はどうするつもりなんだ?まだ今ならどうにでもなる。今住んでいる屋敷や離れだけでも残して……」
しかし杏はそれを聞いて首を横に振った。
「もう家族の方とは話はついているの。母もあの屋敷を出て柚季姉さまの持っているマンションに移ることに同意してくれたし、私も離れから引っ越す準備をはじめているわ。姉さまたちも、いろいろ思うところもあったでしょうけれど……私が決めたのならって、そう言ってくれた」
それに、まだすべてが人手に渡ると決まったわけではない。井川のこれからの采配次第で、勢いを盛り返せばまた元の暮らしを取り戻せる可能性も残されているのだから。

そう言ってすっきりとした表情で微笑む杏を、井川はまだ諦めのつかない顔で見つめる。
「今回の危機的な状況は君のお蔭で何とか乗り切れた。しかし君が……いや君たちが支払う代償はあまりにも大きい」
井川はそこで一度言葉を切るとその場から立ち上がり、窓の方へと歩み寄った。
「杏、私は君から奪うばかりで、何一つ与えることができなかった。遂には君の生まれ育った家まで手放させて……夫として失格だな」
いつも物静かで、あまり感情を表さない夫が初めて見せる弱気な言葉に、杏は戸惑う。しかし彼女はすぐにそれを否定した。
「そんなことない。私はあなたが側にいてくれるなら、どこに行っても生活していけるわ。それに……それにあなたは私にとっても大切なものをくれた」
杏は窓辺でこちらに背を向けて経つ井川の後ろに立つ。
「赤ちゃん、できたの」
弾かれたように振り返った井川の顔に浮かぶ驚きの表情を見て、杏は思わず声を出して笑った。
「これ以上、大事なものなんてないでしょう?」
一瞬言葉を失った井川は、そんな杏を引き寄せ、ただ強く抱きしめる。それからしばらくの間妻を抱きしめていた彼がやっと口にしたのは、ただひとこと。
「ありがとう、杏」という感謝の言葉だった。


≪ ChapterV 完 ≫


≪あとがきへ

≪BACK / この小説TOP へ
HOME






Photo by 7style