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Chapter V

   躊躇いのラプンツェル  21


そして翌月。
招集された役員会は、事前からかなりの混乱が予想された。
桐島の内紛の再燃とそれに伴う業績の悪化はもはや歯止めが効かない状況で、市場関係者の間ではグループの解体再編成は時間の問題とみられている。その上、もしもそれで事態が収拾できなければ、まだ今のところ業績の悪化が避けられている本業の方もいずれは煽りをくうだろうと囁かれ始めていた。無論、あちこちから現在の経営陣にこの事態の責任を問う声が上がっているが、今のところはまだ井川たちが何とか抑え込んでいる。
しかしこのような外圧と内部からの突き上げは日々し烈さを増してきており、グループのトップに座っている井川に対する風当たりもかなり厳しいものがあった。

さすがに疲れたな。今日で丸々ふた月、休みなしか。

杏の元を離れる前からこのような状態は続いていたが、一人になってからは特に家に居ても仕方がないと休みも関係なく仕事に出続けている。
さすがに家庭持ちも多い秘書たちには極力通常どおりの休みを取らせるようにしているが、彼らも上司が出社しているのに自分たちが休むことはできないと、臨時のローテーションを組み休日返上で出てきている様子だ。もしくは、会社の危急存亡が叫ばれている今、のんびり家で休んでいる場合ではないという危機感に煽られているのかもしれないが。
井川はオフィスで今日開催される役員会の議題を確認しながら、鼻の付け根のあたりを揉んで顔を顰めた。
本来ならば井川とて、この蟻地獄のような状況から逃げて逃げ出せぬ身ではない。彼自身、本来は桐島家には何の縁もゆかりもなかった存在だ。もしも桐島に経営を引き継ぐべき人間がいたならば、彼はそれを陰から支える役目を担うことになり、今のように脚光を浴びることなど一生ありえなかっただろう。
権力を握るということは、時として多大な代償を支払うことになるものだ。それが嫌ならさっさと手を引き、表舞台から消えてしまえばいい。
要は放り出せば良いのだ。会社を、桐島の家を。

だが、それはできない相談だな……

井川は厳しい表情のまま、心の中で苦笑いする。
自分の決断は会社自体に影響を及ぼすことはもとより、取引先や関連会社、社員、その家族も含め、彼らの生活がかかっている。そんな重大な責任をそう簡単に放棄できるものではない。
そして何より今の彼にはどうしても手放せない、いや手放したくないものが存在する。
妻である杏だ。
現状、杏たち家族は経営には一切関与していない。しかし、彼女たちが桐島の創業者一族として所有する株式はかなりの比率で、それがもたらす利益が生活を支える基盤となっていることは紛れもない事実だ。
それらを踏まえて考えると、桐島との決別は即ち杏との別離を意味するといっても過言ではない。
会社と社員の生活を守るという公の立場とはまた別に、自分を信じて待つといった妻のためにも、彼は身を賭してでも何かこの場を凌がなくてはならない。

時間になったと秘書から確認の連絡が入り、立ち上がった井川はその決意を胸に会議に臨むべくオフィスを出たのだった。


臨時で招集された役員会は、当初の予想どおり大荒れの展開となった。
グループの現状報告が済むと、それらの議題に入る間もなく井川の経営者としての責任を問う声が上がり、解任議案が上程される。
そこに集う役員は十人余り。
前社長の遺志を汲み現状の維持を目論む旧体制派と、井川を追い落として経営権を握りたい反主流派が半数ずつで、勢力はほぼ拮抗している。
まずはここをクリアしないことには先には進めないが何分にも分が悪い。特に先日、杏たち桐島家と井川の関係がぎくしゃくしていることを週刊誌にすっぱ抜かれて以来、周囲にも動揺が広がり、形勢はますます不利になりつつあったからだ。
井川の後ろ盾となっている桐島家が手を引けば、現状では彼の存在などひとたまりもない。
いざ採決となってから、まさかの裏切りということもあり得るのだ。
息苦しいほど重いその場の空気に、井川は次の手を思案しつつ周囲を見回す。

仕方がない、運を天に賭けてみるか……
彼がそんな風に意を決したその時だった。
役員会議室のドアをノックする音が聞こえてきたのだ。
「誰だ?重要会議中は取り次がないように言っておいたはずだが」
末席にいた役員の一人が椅子から立ち上がると入口に歩み寄り、ドアを開ける。
「すみません、桐島夫人がどうしてもこの場で皆さんにお伝えしたいことがあると言っておいでになられていまして」
「桐島夫人?前の社長のか?」
「いえ、そのお嬢様、現社長の夫人である杏さんです」
一瞬静まり返った会議室に役員たちの動揺が広がる。井川と不仲が囁かれている妻の登場に、反社長派の者たちは俄かに活気づき、井川に組する者は不安そうな表情を浮かべた。
「杏が?一体何の用件で?」
井川も訝しげな顔で取り次ぎに来た秘書の背後を見つめている。
すると、ドアの向こうとこちらで話をしていた役員たちと秘書のやり取りを聞いていた杏が、彼らを交わしてするりと室内に入って来た。
フレンチロールに結い上げた髪とチャコールグレーのスーツ。それに合わせた黒いローヒールのパンプスを履き、装飾品を一切身に着けていない彼女は、かつて父親の秘書をしていた時代にも見たことがないほど堅いビジネススタイルの装いだ。
「すみません。突然押しかけてしまいまして」
社長付の秘書をしていた杏は、ここにいる役員たちとは顔見知りだ。それでも敢えて礼儀正しく慇懃に頭を下げて挨拶をする。そして彼女は会議室の一番奥に座っている井川の正面に立つと、手にしていた厚い書類の束をデスクの上に置いた。
「それでは皆さま、どうぞご着席ください」
有無を言わさぬ口調で夫を含めた役員たちを席に座らせた杏は、自分自身は立ったままで側に置いた書類に片手を突き、周囲をぐるりと見回した。
「今日私がここに参りましたのは、桐島家を代表いたしまして、皆さまにその意思をお伝えするためです」
そう切り出した杏の言葉に、今まで呆気にとられていた者たちがざわめきだす。
「ここに桐島家が所有する株式等の目録があります」
そう言って杏は自分の手の下に敷いている書類の束に目をやる。
「もしもここで社長の解任が決まれば、その時点で家族が持つ本社及び関連会社当の株式をすべて売却する用意があります」
これには皆度肝を抜かれたのか、会議室は再びしんと静まり返った。
「これには私自身はもとより、母そして今は桐島家を離れている二人の姉の同意も取りつけてまいりました。状況次第で、創業者一族として私たちが保有している株を残らず売却し、桐島家はすべての事業から一切の手を引きます」
「し、しかしそんなことをしたら……」
思わぬ展開に、役員たちも呆然としたまま言葉を失っている。
「株価は一気に値崩れを起こすかもしれません。それに恐らく、グループとして、桐島の名を冠すること自体に意味がなくなるでしょう」
桐島グループの対外的な信用の要因には、創業家の持つ莫大な個人資産が含まれる。公表されているものだけでも、社長であった亡き父親と家族合わせて二千億を超える資産を保有すると言われているためだ。実際は表に出せないものもかなりあり、それらがいざという時のための資金として秘密裏にプールされていることは一部の役員には知らされている。ゆえに、それらがなくなればますます桐島の信用度が内外共に下がっていくことになる。
「そして、ここにあるのが、家族が現在も分割して所有している資産目録です。現在係争中のものは除いていますが、それ以外はほぼすべてこの中に集約しています」
書類をぽんと叩いた杏は、少し前のめりになって突いていた手を離し背筋を伸ばすと、正面に座る夫の顔を見つめた。
「これらをすべて、現社長である主人に預けます。今後の活用、及び売却等について、これ以降は彼の裁量にゆだねることにします」
もちろん、こちらに関しても家族の同意を得た上で委任状も用意した。家族の中でもとりわけほぼ全財産に等しいものを手放した形になる杏の元には、もう資産と呼べるようなものは何一つ残っていない。
「それは、社長を解任したら資産のすべてを引き上げるという脅しか?」
ある役員の呟きにも、杏は冷静な表情を崩すことなく応じる。
「そう思われるなら、思っていただいても結構です。どんなことがあっても、現社長をトップに据えた今の体制を守り抜くという私たちの総意は変わりませんから」
杏はそれだけ言うと、呆気にとられた顔をしている井川や役員たちに向かって深々と一礼する。そして呼び止められることもないままに、役員会議室を後にした。
慣れないことをした極度の緊張と、人前で大見得を切ったストレスとで疲労はピークに達しているはずだが、気分だけは妙に高揚していた。しかし元々気が小さい性分の彼女は、あのまま会議室に留まることなど到底耐えられないことは自分でも分かっている。
その証拠に廊下で待機していた秘書室の元の同僚に伴われて井川のオフィスに戻った途端、それまで過多に分泌されていたアドレナリンが突然切れたかのごとく、ぐったりとした彼女はソファーに倒れ込んだ。
「大丈夫?気付けに熱いコーヒーでも持ってきましょうか?」
心配そうにこちらをのぞきこまれ、杏はむりやり笑顔を作り、何ともないと応える。
「あ、すみません、できればお水を」
数日前から少しずつ、つわりと思しき症状が出ている今の彼女には、社長の来客用に用意されたここの薫り高いコーヒーはとても飲めそうにない。

そういえば、まだ彼には知らせていないんだった。
ようやく緊張から解放された杏は、やっとそのことに思い至った。
梨果に叱咤されてから今日のこの時まで、疲れも感じずただひたすら準備に奔走し続けてきた。そうすることで迷いが吹っ切れた彼女はようやく長い間抜け出せなかったマイナス思考のトンネルを自力で脱出することができたような気がした。

役員会から戻っていたら、彼にちゃんと伝えよう。
「母は強し?かな」
そんなことを呟きながら、杏はまだぺったんこの自分のお腹に手を置き、そっと撫でる。
これから先、今日のことがどんな結果に結びつくのかはまだわからないけれど、できることは全てやったつもりだ。すべてに中途半端だった自分の中にも、まだこんな思い切りの良さと押しの強さが残っていたのかと思うと、杏はくすりと笑ってしまう。
私は幸せだ。
心から笑えている自分に気づき、杏は改めてその思いを強くする。
お金があって家があって、贅沢なくらしができる。それもありがたいことだと分かっているが、それだけでは決して人は幸せになれないことを、彼女は身を持って知っていた。
満たされなかった子供時代、杏はいつも家族に囲まれて賑やかに暮らすことを夢見ていた。そして今、愛する人を見つけた彼女は自らの力でその夢を実現しようとしている。

物語の中で、かつては高い塔の上から一人寂しく外の世界をうかがうことしかできなかった女の子は、恋を知り、愛を得ることで強くなった。
しかしそのことが切欠で、身ひとつで塔から追い払われた彼女だったが、世を儚むことなく日々を生き延び、遂には幸せな人生を掴みとる。

夢も希望も、何もかも、諦めなくてよかった。
ソファーに深く腰掛けたまま、杏はそっと目を閉じる。
そのうち聞こえてくるであろう、愛する人の足音を、一人静かに待ちわびながら。




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