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Chapter V

   躊躇いのラプンツェル  20


「ほら、早く行かないと産まれちゃうわよ」
杏は梨果に急き立てられて家を出る。途中、母屋のところで母親と合流した姉妹は呼んでおいたタクシーに乗り込むと、柚季がいる病院へと向かった。


「……つ、疲れた。マジで」
翌朝、柚季が入る予定の個室で、梨果と杏は備え付けのソファーにへたり込んだ。
家族が到着した時にはまだ柚季は病室で待機中だった。すぐにでも生まれそうだと聞いて急いで来た杏だったが、当の本人はまだ大きなお腹を抱えたままでそこらを歩いていたのには驚いた。
「初産だし、そんなに簡単には出て来ないわよ」
母親がタクシーの中でそんなことを言ったのを聞いて呑気だと呆れていた梨果も、さすがにこれほど時間がかかるとは思っていなかったらしく、緊張しすぎたせいで頭痛がする、とこめかみを揉んでいる。
無事出産を終えた柚季はまだ回復室にいて、もうしばらくは戻って来ないようだ。
日付が変わる頃に体調を崩している母親を先に帰宅させてからというもの、杏たちはずっと分娩室の側の家族控室に詰めっ放しで一睡もできないままに夜を明かした。
姉の分娩に立ち会った神保が、出産を見届けてから着替えのために一度自宅に戻って行ったのを見送った後、疲労困憊の姉妹は、一足先に部屋に入れてもらい、ここで柚季が戻って来るのを待つことにしたのだ。

「話にはきいていたけど、長かったね」
杏はうーんと大きく伸びをして、凝り固まった体を撓らせる。
「さっき助産婦さんに聞いたけど、生まれるまで丸2日かかった人もいるっていうから、まだ良い方なんじゃない?」
あくびをかみ殺しながら頭をくるりと回すと、梨果も首のあたりがぽきぽきと鳴った。
昨日の夕方に病院についてからというもの、時折襲ってくる陣痛に呻く姉を見ながら数時間。終いには見ている方も一緒になって「う、ううっ」と唸ってしまいそうだった。その後、やっと分娩室に移動したかと思ったらそれから更に数時間。あの物事に動じない神保でさえ、途中トイレに退室した際に見た時には真っ青な顔で脂汗を浮かべていたくらいだ。
分娩室前の廊下にいたわけではないので、よくドラマで見かける中で絶叫する声が聞こえてくるようなことはなかったが、それでも深夜の病院で人の出入りがそこだけ妙に慌ただしい。二人は静寂の中に響くドアの開閉音やナースコールの音、人の足音にびくびくしながら一夜を明かしたのだった。

しばらくして柚季が病室に落ち着いた頃、神保が彼の両親を伴って病院に戻って来た。それから時間が来るのを待って、皆を伴って新生児室に向かう。彼の両親に前を譲り、梨果と杏は少し下がった場所からガラス越しに生まれた子供を見た。
「かわいいね、女の子かぁ」
息子の横で孫を見てはしゃぐ神保の両親の様子に、杏は無意識に自分のお腹を擦った。
「どう?何か実感がわいてきた?」
梨果の問いかけに、杏はにっこりと微笑む。
「うん、ちょっと元気をもらった気がする」
妊娠が分かってからも、今までは何となくお腹の中にいるのかな?という感じでしかなかった。しかし、間近で子供の誕生を見ると、いずれ自分の子もこうして世に出てくるのだという現実的なビジョンのようなものができてきて、杏は興奮を覚えた。

くよくよ落ち込んでばかりはいられない。自分のためだけでなく、生まれてくるこの子のためにも、出来る限りのことをしておかなければ。
杏は心の中でそう決意すると、もう一度姉の産んだ赤ちゃんをじっと見つめたのだった。


それからすぐのこと。
杏は自宅に梨果と夫の一真、そして神保に集まってもらい、ある計画を打ち明けた。しかしあまりにも突然の決断に、驚きを隠せない梨果は何度もそれを聞き返した。
「私や柚季姉さんは最初からそのつもりだったから、問題ないけど。でも、杏は本当にそれでいいの?」
まだ信じられないといった顔で自分を見ている姉に、杏は大きく頷いた。
「ええ、私の方は。今法律や税法上問題が出てこないか、確認してもらっているところなの。それで皆さんにお願いするのは、母のことなんだけど、何とか説得してもらえないかと思って。私では満足に話さえ聞いてくれないのよ」
「それで、お義母さんは何て?」
一真に聞かれ、杏は苦笑いする。
「話してみたけど、途中で即却下されたわ。それ以来話をしようにもまったく。この頃は世間話にも応じてくれないから」
それを見た梨果が肩を竦める。
「そりゃあの人はそうでしょう。この期に及んでまだ贅沢な暮らしから抜けられないみたいだから」
父親の死後、収入が半減したにもかかわらず依然と変わらぬ生活をし続ける母を見て、さすがの杏も少々苦々しく思っていた。父が倒れてから今まで、何も言わずにそれを支えてきたのは井川だ。その彼が苦境に立たされてからも母親の生活態度はまったく変わらないのが彼女には信じられなかった。
「分かった。できる限り説得してみよう。念のため一度柚季にも聞いてみるが、多分すぐにでも了承するだろう」
「それじゃ、俺と神保さんはお義母さんの方を」
「お願いします」
杏に頭を下げられた神保と園田は互いに顔を見合わせて頷いた。
「私と杏は自分たちの分ね」
「ええ、姉さまもお願い」
姉にも下げた杏の頭を、梨果がぐしゃぐしゃと撫でる。
「姉妹じゃない、このくらい当然だわ。そんなこと言うなんて、水臭いわよ」
「ありがとう、梨果姉さま」

姉妹の結束と婿たちから母親への説得が功を奏し、徐々に話は進んで行く。そして今、杏の覚悟は確実にその形を作り始めていた。
彼女が絞った照準は、翌月に迫った役員会だ。
こうして井川が戦っている所とは別の場所で、杏自身も今まさに争いに身を投じようとしていたのだった。




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