一時は形勢逆転を余儀なくされた井川だったが、その後は何とか持ち直し現在は一進一退の攻防を繰り広げている様子だ。 杏は周囲から漏れ伝わる彼についての情報を聞いては一喜一憂しつつ、自身も身辺の整理に追われる日々を過ごしていた。 そんな彼女も井川が家を出てしばらくの間は何も手につかなかった。というのも、考えれば考えるほど今自分が何をすればよいのか分からなくなっていたのだ。 彼がいなくなり、いつも以上にひっそりと静まり返った家に一人置き去りにされることがこんなにも心細く虚しいものだとは。 母屋に戻るようにと再三にわたって姉たちに勧められたが、どうしても夫と暮らした痕跡が残る場所から離れることができなかった杏は、かつて井川が使っていた部屋に残された彼の荷物の前に座り込んではぼんやりとそれらを眺めて時間を過ごした。食欲がないから食事の準備をする気にもならないし、外出することはおろか家を片づけるような意欲さえわいてこない。こんなことになってもなお、自分からは何のアクションも起こせない自身に失望と苛立ちを感じつつも、気力を失った彼女はまわりの状況に取り残されていった。 日がな一日そんな様子で、満足に食事もとろうとはしないという妹を心配した梨果が、離れを訪ねて来たのは、先週のことになる。 ちょうどその日の夕方、神保から柚季の陣痛が始まったという知らせ受けた梨果は、取り急ぎ母親のいる屋敷の母屋と杏の住む離れへと連絡を入れた。しかし何度杏の携帯を鳴らしても、家の固定電話に掛けても離れの方は誰も出ない。そこで彼女はてっきり一人になった妹が、母親のいる母屋の方に引き上げていると思い込んでいた。 しかしその後母屋に母親を迎えに行くと、杏はこちらには戻って来ていないという。 それを聞いた梨果が、もしかして妹の身に何かあったのではないかと心配して慌てて離れに駆け付けてみると、杏が薄暗い部屋に電気も点けず、一人ぼんやりと座り込んでいる姿を見つけた……というわけだ。 「しっかりしなさい。今からこんなんじゃ、この先どうするのよ?」 「うん……」 反応が薄い妹を叱咤しながら、梨果は内心で舌打ちした。家族のうち、柚季は出産と育児でしばらく手が離せないだろうし、母親を表に引っ張りだすことはとうの昔に既に諦めた。となれば、これからしばらくの間、杏をサポートできるのは梨果だけという状況にあって、当の本人がこれではまとまる話もまとまらなくなってしまいそうだ。 井川が家を出る際に離婚届を残して行ったことは梨果もすでに聞いていた。彼らしいといえば彼らしいが、また思いきって大きな賭けに出たものだと思う。それは経営者としての責務よりも妻である杏に対する庇護に重きを置いた結果であり、梨果の知る彼の計算高い性格からは考え難い行動だった。 彼も人の子だったというわけか…… 彼女とて、妹夫婦が諍いを繰り返すよりは円満でいてくれた方が嬉しいのは当たり前だ。たとえその相手が、かつて蟠りがあった井川だったとしても、杏が彼を愛しているというのなら、それはそれで良いのだと思うようにしていた。 しかし、井川の方も杏に愛情を持っているとはこうなるまで分からなかった。父の思惑で進められた結婚ではあったが、結果オーライの万々歳ということだろうか。しかし周りの環境の変化が思わぬ方向に進んでしまったのは、今となっては残念としか言いようがない。 今もなお、周囲に翻弄され続ける杏はさぞかし心を痛めていることだろう。 元々気持ちを外に出すことが苦手で、ついつい内にため込んでしまう性格の妹だ。そんな彼女を必要以上に叱咤するのは、梨果にとっても心が痛むことに変わりない。しかしただでさえ、話がややこしい方向に向かいつつある状況では、何が何でも杏には立ち直ってもらわなければならなかった。 「いい?井川さんはずっと不眠不休で戦っているって話よ。一体あの人が何のためにそんなことをしていると思うの?」 何も言い返さない妹の隣りに座り、梨果はその頭をぽんぽんと軽く叩いた。 「あの人、あなたのためにそうしているのよ、多分。でなきゃとっくに諦めて投げ出してるわ」 姉のその言葉に、杏は驚きながらも否定的に首を振る。 「でも、隆裕さん、離婚届けを置いて行ったのよ」 「知ってる。ま、あの男ならそれくらいの根回しはしていても不思議じゃないわよ。今はそれしかあなたを守る手段がないっていうんだから」 「でも……」 「それよりあなた、これからどうするつもり?何で彼にちゃんと伝えないのよ」 梨果がベッドに凭れ、足を投げ出して座る妹の腹部に視線を走らせる。 杏は無意識にお腹の上に置いた手でそこを撫でながら、辛そうに俯いた。 彼女が自分の妊娠に気づいたのは、井川がここを出て行ってからすぐのことだ。待ち望んだ子供を宿した杏だったが、今の状況を慮ってまだ彼には知らせていない。 「もしもこのまま井川さんが負けて、ここに帰らないってゴネたら、あなたそれで納得できるの?」 正直に言えば、それは嫌だ。しかし、もし本当にそうなれば、杏は納得するしかないだろう。自分と一緒になったがために全てを失いつつある井川が去るのを引き留める権利は杏にはない。彼は望んで自分と結婚したわけではないし、今も夫としての義務感から彼女を護りつつ、桐島の行く末を模索しているのだから。 そう口にすると、梨果は本心から驚いた様子でまじまじと杏の顔を見た。 「それって、すごい見当違いというか、思い違いじゃない?まぁ、あの人も言葉が足りないクチだから、杏がそう思うのなら、それも仕方がないけど。でもそうなったら、これからあなた一人で子供を産んで育てていくことになるのよ。その覚悟はできている?」 自分一人でそれができるかどうかは分からないが、やるしかない。そう思ってはいてもすぐに返事ができない。心のどこかで井川が戻って来ると信じている、今はまだ。 「甘えないでよ」 突然投げつけられたきつい言葉に驚いた杏は、びくりとして姉を振り返った。 「自分からは何もしないで、ただ待っているだけ。そりゃその方が楽よ、自分はどこも痛まないんだから」 いつもの姉は杏に対して決してこんな強い口調をする人ではない。しかし今日の梨果はその手を緩めなかった。 「あなた、前に井川さんから大人として認められていないって言ってたけど、それも仕方がないわね、自分で考えて行動しないんだから。それじゃ大人に言われるままに動く子供と同じじゃない?」 「り、梨果姉さまに分かるはずがないわ。いつも、何をするにも後回しにされて、言いたいことも言えずにじっと我慢するしかなかった私の気持ちなんて」 兄弟姉妹の中でとりわけ優秀で、いつも人の輪の中心にいて周囲から期待されてきた姉と、それを隅っこでそっと見ているしかなかった妹の自分。幼い頃から姉と比べられ、すべてに劣ることを自覚得ざるを得なかった杏はいつも自分の意見に自信が持てず人に従うだけで、いつしかそれが習い性になっていたのだ。 それを聞いた梨果は、呆れた顔で彼女を見つめた。 「それは桐島の、事業に関することだけでしょう?結婚は本人同士のことで、他人と比べた優劣なんて関係ないじゃないの」 理屈としては分かる。だが、いざそれをしたいと思ってもなかなか実行に移せないまま機会を逸してしまったのだ。 「もっと自信を持ちなさい。井川さんはあなたのことを愛しているわ。でなきゃここまで苦労して家を立て直そうなんて思わないでしょうね」 「そんなこと、私……信じられない」 「迷っている時間はないのよ。今動き出さなければ、本当に彼を失ってしまうかもしれない。杏、今私たちにできることを探してそこから始めましょう」 梨果はそう言うと立ち上がり、杏の手を引いた。 「とりあえず、先ずは病院に行かなくっちゃ。いよいよ柚季姉さんの赤ちゃんとご対面よ」 HOME |