「どういう意味なの?」 リビングのソファーに井川と向かい合わせに座った杏は、目の前の用紙と井川の顔を交互に見る。 「私の方はすでに署名捺印してある。念のため君が持っていてくれ」 「そんな……だってこれは」 杏はテーブルの上に置かれているものを信じられないという表情を見つめた。 「離婚届だ。もし私に何かあったら、すぐにこれを提出してくれ」 「冗談でしょう?急に一方的にそんなことを言われても」 顔を上げた彼女は、苦しい表情を浮かべる井川と視線を合わせる。 「いざという時の保険代わりだ」 「保険?」 彼は無言で頷くと用紙を畳んで封筒に戻し、杏の前に押し出した。 「来月の役員会で退任に追い込まれる可能性もある。そうなれば後々は先代の頃から今迄の責任の追及が始まるはずだ。そうなれば君たちも連座させられかねない。だからその前に」 今回の不祥事により、桐島はグループ内の結束が緩むと同時に信用不安に陥った。今では上場する主軸会社の株価も軒並み半分ほどにまで下落し、倒産の危機に直面している。 すでに社内では井川の経営者としての責任が問われはじめており、連日水面下で進退を掛けての激しい攻防が繰り広げられていた。 「君と夫人は実質的な経営にはタッチしていない。しかし、もしもこのまま持ち堪えることが出来なかったら、前社長の遺産を会社の隠し資産とみなし、取り込まれる恐れがある」 現在杏たちが持っている資産の中には過去に両親が共同名義で収得したものや母が自身の実家から分与された土地なども含まれている。井川は母娘共にそれらすべてを身ぐるみ剥がされる可能性が否定できないというのだ。 もしもの場合、杏たちが混乱に巻き込まれないように速やかに婚姻関係を解消し、責任はすべて自分一人が引き受ける。井川はその覚悟で会社の命運を掛けて戦うと言い切った。 「でも、だからといってこんなものを残して、すぐに家を出るなんて」 彼はこの家を出て都内のマンションに移ると言い出した。元より少なかった彼の荷物はすでに粗方片づけられていて、とりあえず今は当面生活するに必要なものだけ持ち出すつもりらしい。 このタイミングで別居に踏み切るのは、離婚する可能性のある夫婦がいつまでも同じ家で暮らすことが不自然だと周囲に疑われることを避ける狙いがある。確かに彼の言うことに道理はあるが、突然これを聞かされた杏からしてみれば納得できないことばかりだ。 混乱する杏に、井川はいつもと変わらぬ自信ありげな様子で頷くと、彼女の頬を軽く撫でた。 「絶対大丈夫……とは言い切れないが、ベストを尽くす。またここに、君のところに帰ってくることができるように」 井川はそう言い残すと、テーブルに封筒を置いたまま席を立つ。なすすべなく呆然とそれを見つめていた杏ははっとして慌てて彼の後を追った。 「待って」 玄関で片手にスーツケースを持ち、こちらに背を向けて立つ井川がその声に振り向いた。 「行ってらっしゃい」 その言葉が予想外だったのか、井川は少し驚いた顔で彼女を見つめた。 「お帰りを待ってます。私、何があってもずっとずっと、あなたの帰りを待ってます。だから……だから絶対に帰ってきて下さい」 杏はいつも夫を送り出す時のように微笑む。井川はそんな彼女を一瞬片手で抱き寄せると旋毛に軽く唇を付けた。 「杏」 「なに?」 「もしも私が……いや、いい。行ってくる」 彼は杏を離すと何かを言いかけた。しかし結局何も言わずにドアの向こうに消えて行く。 「行ってらっしゃい」 その掠れた声が彼に届いたかどうかは分からない。だが、彼女はしばらくその場から動かず、ただ彼の出て行ったドアの方を見つめていた。 井川を送り出した後、屋敷の母屋と離れの間にある庭に出た杏は、一本の桜の木の下に佇んでいた。 毎年春には枝一杯に薄ピンクの花をつけるこの桜の木は、杏たちが生まれた際に今は亡き祖母が植えたものなので、すでに25年はここに立っていることになる。 今ではしっかりと根を張り、枝を広げた桜だが、この木は最初二本一対で植えられていたらしい。しかし、彼女が物心ついた時にはすでにここ桜は1本しかなかった。後になり、同時に植えた2本のうち、1本は植樹したものの上手く根付かずしばらくして枯れたことを祖母から聞かされた。記念樹が枯れるだなんて縁起が悪い、と祖母は長いことそのことを彼女には隠していたのだ。 1本だけ生き残った桜。 誰にも言わなかったが、それは杏の木として植えた桜の方だと祖母は教えてくれた。枯れたのは穣のための桜で「あの子はここでは長く生きられないという暗示だったのかねぇ」と花の時期になると満開の桜を見上げて呟いていた祖母を思い出す。 姉たちが誕生した折にも、それぞれ庭に祖母が好んだ木を植えたらしいが、祖母の死後に枯れてしまったり屋敷の改築の際に切られたりして今はどちらも残っていない。 思えばこの木と同じく自分だけがこの家に残ることになったのは不思議な巡り合わせだ。 ここは自分の育った家。杏が生まれた時からずっと暮らしてきた、離れがたい場所だ。だが、もし仮にこの家を手放さなくてはならない事態に陥ったとしても、彼女に躊躇いはない。 井川がいなければ、彼女にとって、ここはただの空虚な入れ物でしかないのだから。 「大丈夫、私はあなたを信じて待っているから」 杏は漏れてくる陽の光に目を瞬かせながら、桜を見上げる。この木が芽吹き、枝一杯の花を咲かせる頃には、必ずや二人一緒にここに立っていたいという願いを込めて。 HOME |