BACK/ NEXT / INDEX



Chapter V

   躊躇いのラプンツェル  17


あちこち手を回したにもかかわらず、すぐに井川の襲撃事件は世間の知るところとなった。その詳細な内容から見ても、内部の事情を知るもののニュースソースが使われていることは間違いなく、井川は連日のように続く警察の事情聴取に加えて、マスコミからも追い回されることになってしまった。
「多分、いや間違いなく誰かがリークしたんだろうね」
事件から1ヶ月ほどが過ぎた頃、帰宅した井川に週刊誌の記事について尋ねた杏に彼は疲れた表情でそう答えた。
井川を襲った人物の背後関係が明らかになるにつれ、その繋がりが社内でも問題視されるようになってきた。もちろん、それらが先代からのものであることは皆重々承知している。だが、今まで桐島が力でねじ伏せてきた不平や不満の蓄積は相当なもので、いくら後継者に指名されたからといっても若輩の井川がそれを抑え込むことは不可能に近い。
また、この機に乗じて一度は沈静化しかけていた造反者たちが再度勢いを盛り返しつつあり、その巻き返しへの対応にも苦慮していた。
そんな事情もあって、井川は傷口の抜糸が終わるまでゆっくり療養する余裕すらなく、数日間の入院の後、すぐに職場に復帰せざるを得なかったのだ。
ワイシャツの上からも分かる、傷口を保護するために厚く巻かれた包帯が痛々しい。
着替えを手伝いながら、杏は夫の背中を見ながら辛そうに呟いた。
「もう少し休めれば、早く治るのに」
「分かってはいるんだけどね。今はそうも言ってはいられない」
予定ではとうの昔に抜糸を終えているはずだったが、思いのほか傷の治りが悪く、医師の所見で未だそれも見合わせている。無理をしている自覚がある彼をどうすることもできない自分の不甲斐なさに、杏はこみ上げてくる涙を見られないように彼のスーツを仕舞うふりをしてウォークイン・クローゼットの中へと逃げ込んだ。

週刊誌の記事。
桐島にまつわる黒い噂は多方面に影響を及ぼし始めている。
本業だけでなく、後に起業、または買収したリゾート産業や医療器材の分野、またレンタル・リース業など、直接関係ないグループ会社まで、どうしても色眼鏡でみられてしまう。特にそういった風聞を嫌う業種にあっては次々に交渉の中断や契約話自体に二の足を踏む相手先が現れ始め、本社及び桐島一族の責任を追及する声が出始めていた。
そしてそのあおりを受けたのが、やっと下火になっていた本社の内紛の再燃だ。
元来桐島グループは社長であった姉妹の父親、継春のワンマン経営で成り立っていた。継春の代で事業は飛躍的に拡大していったが、その本質は創業時の個人経営の会社と何だ変わりがない。そのため以前から裏で「桐島商店」などと陰口を叩かれたものだが、生前の父親は頑としてトップダウンの専制体制を改善しようとはしなかった。
井川は後継者として、それらをそっくり受け継いだ形になるのだが、如何せん、彼が一人ですべてを背負うのはあまりにも無謀過ぎたといえる。というのも、長年の継春の圧政で重役たちの心は完全に会社から離れてしまっていたからだ。それを背景にして、先の内紛で失ったグループ内企業をはるかに上回る数の関係会社や子会社が、これを機に桐島の影響下からの離脱を目論んでいた。
そういう経緯で、杏もつい先日から志願して表舞台に立つことになった。
少なくともグループ内にある親族の経営する会社に対して、彼女の存在が最後の切り札となることを願ってのことだ。何分にも現在桐島を名乗るのは自分とその母親の美咲、そして夫である井川だけなのだ。彼女にできることなど限られているのは分かっているし、もはや情に訴えるような段階ではないのかもしれないが、それでも杏は自分だけ何もせず井川を一人荒海に放り出すことはできなかった。

「濡れないようにパッドを貼るから、シャワーを使いましょう」
着衣を脱ぎ、井川とともに浴室に入った杏は、傷口を避けながら彼を洗い上げていく。最初は互いに照れもあったし行為自体に戸惑ったが、今ではこれにもすっかり慣れた。井川もここでは大人しく杏の言うことに従う。その姿はまるで母親に入浴させてもらう子供のようで、面と向かっては言えないが、この時いつも彼女は一回りも年上の夫のことを「可愛い」と思っている。
今夜もシャンプーをした後、彼の体を流していた杏は、突然背後から彼に抱きしめられた。
「世話を掛けてすまない」
耳元で囁く声と久しぶりに感じる彼の温もりに、杏は暫し自分の体を預ける。
「こんなこと、お安い御用よ」
「それだけではない。とうとう君まで表舞台に引っ張り出すことになってしまった」
そう言うと、井川は彼女の肩の窪みに顔を埋めた。
「ううん、私こそ、あまりお役に立てなくてごめんなさい」
いくら創業者一族とはいえ、今さら杏が出て行ったからといって簡単に離反が収まるというものではないことくらい分かっている。現に前回、今回と二度にわたる騒ぎで、すでに桐島グループの企業規模は井川たちが引き継いだ時の半数近くにまで縮小しているのだ。
それはやがて井川を始めとする現経営陣の責任問題に発展するだろうことは容易に推測できたが、彼女は敢えてそれに甘んじる覚悟もできている。

「私は大丈夫。できることは何でもするわ」
今の彼には怪我のせいだけではない、重い疲労を感じる。精神的にも追い詰められている井川のことを考えると、少しでも 自分が肩代わりできることがあれば何でもしたいというのが杏の気持ちだ。
「だからあなたはもう少し体を労わって」
杏の言葉にも井川は無言だった。ただ、彼の腕が一瞬強く自分を抱きしめたことがその答えだと彼女は思っていた。


だが、それからしばらく後、彼から切り出されたのは、杏が想像もしていなかった、意外な申し出だった。




≪BACK / NEXT≫ / この小説TOP へ
HOME






Photo by 7style