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Chapter V

   躊躇いのラプンツェル  16


病院に着くとなぜか通常の入り口ではなく職員用の裏口と思しき扉から院内に入るよう促された。
気が急いていたせいもあってそれを疑うような気持ちの余裕はなかったが、通された井川の病室があるというフロアまでたどり着いた杏は、その場の病院らしからぬ物々しい雰囲気に違和感を覚えた。
「これは……?」
エレベーターを降りたところから見ても、そこにいる者の大半は明らかに医療関係者ではなかった。というのも、半数はスーツ姿そして残りの半分は制服を着た警察官だったからだ。
中の一人が杏の姿を認めたようで、足早にこちらに近づいてくる。
「失礼ですが、桐島氏の奥様でいらっしゃいますか?」
「は、はい」
「そうですか。申し訳ありませんが、ご主人は今ちょっと取り込み中ですので、別室でお待ちいただけませんでしょうか」
「あの、あなたは……」
相手の男性は失礼と一言断ると、内ポケットから手帳を取り出して彼女の方に差し出した。
「警視庁捜査一課の高木と申します」
「……警察?」
困惑した表情を浮かべる杏の背後から、駆け寄ってくる足音が聞こえてくる。
「桐島さん」
呼びかけてきたのは新たに社長付となった井川の秘書であり、かつて秘書課で自分と席を並べていた男性社員だった。
「あ、あの主人は?なぜ警察の方がこんなところに?」
高木と名乗った刑事は、訳が分からず狼狽える杏を宥める秘書に向けて小さく頷く。
「社長は暴漢に襲われたんです、本社ビルを出たところで。車に乗り込むまでのほんのわずかな間の出来事でした」
「襲われた?主人が?」
秘書の話を聞いた杏は、ショックでその場に頽れそうになる。慌ててそれを支えた秘書は高木に断りを入れると、側にあった長椅子に彼女を座らせた。
「はい。すぐに近くにいた私たちが社長を車に押し込んだのですが、その時にはすでに肩から背中に掛けて鋭利な刃物で切りつけられた後でした」
秘書が用意させた水が入ったボトルを受け取り、きつく握り締めた杏は、真っ青になりながらも唇を引き結んでしっかりと顔を上げる。
「何でそんなことが?」
父親が先代の社長であった時からこんなことが起きたなどとは聞いたことがない。それもあって、井川は平素から自身にほとんど警備をつけていない。政治家などには外出時にSPがついているのをよく見かけるが、一企業家にそのようなものが必要だという認識がないからだ。
「ここ数ヶ月、正確には前社長が亡くなって世代交代が行われてからちょっとごたごたがありましてね。」
語尾を濁すような秘書に、杏は不審そうな顔をする。
「ごたごた?」
「そのようですね。今は捜査の都合上、あまり詳しくはお教えできませんが」
そう言って秘書の話を引き取ったのは高木だった。
「要はあなたのお父上の代からの悪しき因習を、ご主人が断ち切ろうとなさっておられたということです。それで……」
「主人が狙われたと?」
「その可能性は大いにあります。現時点で犯人の背後関係は断定はできませんが」
「そんな……」
その後に状況の大まかな説明を聞き、愕然とする杏の前に立つ高木に征服姿の警察官が何やら耳打ちした。すると彼は杏の顔の高さに合わせるように膝を屈め、彼女に軽く頷いた。
「ご主人の聴取が終わったようです。もう室内にお入りになられても結構ですよ」


「隆裕さん」
医師に怪我の状況を聞いた後、杏が病室に入ると、井川は上半身裸の状態でベッドの上に起き上がっていた。
右の肩から背中の真ん中あたりまで、ぐるぐる巻きになった包帯姿が痛々しい。
「大丈夫なの?」
側に行くと鼻を突く薬品の匂いがあたりに漂っているのが分かった。
「ああ、何とかね。肩と腕、それと背中を少しやられたくらいだ。命に別状はない。ただちょっと不便なのが厄介だな。腕が上がらないから着替えが難しいんだ」
彼はそう言うと利き腕の右手を体の前に持って来て肘を少し浮かせる。だが、途中で痛みを感じたようでそのまま下におろした。
「着替えなら私が手伝います。それより、本当に他にはどこも痛くないの?」
心配そうに自分を見る杏に井川は笑って見せる。
「大丈夫だ。だが当分仰向けにはなれないだろうね」
自由になる左手に入った点滴を邪魔そうにひっぱりながら、井川は包帯が巻かれた右肩を撫でる。
杏は包帯の上から、傷を強く押えないように気を付けながら額をつけた。
「よかったです。大けがにならなくて。本当に……よかった」
「杏」
井川は彼女の頭に左手を添えると、髪を梳くように撫でる。すると二人が静かに寄り添っていた病室の外の廊下が俄かに騒がしくなり、複数の足音が中まで響いてきた。

「入るわよ」
ノックの音がすると同時にドアが開き、梨果が入って来る。その後ろに神保と一真が続き、病室は一気に密度が増した。
「梨果姉さま」
慌てて離れた杏を見た梨果がしまったという顔をする。
「ご、ごめん邪魔だった?」
「いえ、そんなことは」
井川は苦笑いしながら皆に入室を促す。
「それより、神保さんや園田さんまで。すみません、ご迷惑をお掛けして」
「俺は今日たまたま家にいたから」
そう言って謙遜する一真に梨果が微笑む。
「助かったわ、すぐに会社まで迎えに来てもらえたから」
「梨果姉さま、今日はお仕事だったんでしょう?ごめんなさい、心配させて」
「本当に、びっくりしたわよ。それから柚季姉さんには一応知らせておいたけど、ここには来ないようにいっておいたから。臨月のお腹ではあんまりバタバタ動かない方が良いと思って」
「それで柚季が私に連絡を入れてきたので、代わりにきたのですよ。それで、怪我は大丈夫ですか?」
「ええ、ごらんのとおりです。ただしばらくは手を使うことに不自由しそうですが」
井川は上手く上がらない右腕を見せる。
しばらく雑談をしていた一行だが、医師が状態を見に病室に入って来たのを合図に、杏たちも一度家に引き上げることになった。
「とりあえず数日は入院するんでしょう?着替えなんかも準備しなくっちゃね。杏、帰りについでに送っていくわよ」
梨果はそう言って妹を誘う。
「え、でも……」
躊躇する杏に井川も妻の帰宅を口にする。
「そうだね、園田さん、彼女のことを頼んでもいいかな?」
「もちろんですよ大事な奥様をちゃんと家までお送りします」
遠まわしながら、井川にもそう促された杏は渋々ながらもその案を受け入れた。
「分かりました。一度家に戻ってまた来ます」


「しかし、迷惑な置き土産よね」
駐車場を出た梨果たちは、杏たちの住む離れへと車を走らせている。
「置き土産って?」
「井川さん、あの人の後始末をしていて逆恨みされたんだわ、きっと」
その口ぶりで、梨果が父親の表に出せない交友関係なども知っていたことが窺えた。
「姉さまは知っていたの?」
「うーん、全部ってわけじゃないけどね」
そう言って梨果は嫌そうに顔を顰めた。
「悟の件で、ね。あの時もいろいろあったって」
彼女も最近知ったのだが、父親は娘を取り返そうとして、ありとあらゆる伝手を使っていた。その一つが今回のような輩との黒い関係だ。
「井川さん、悟と彼のお母さんにそのことで何度かこっそり忠告していたみたい。人的な被害が出る前にって」
曽田親子が難を被ることを察した井川は、予め梨果のことについてあまり深入りしないようにということを伝えていた。それが一般人の手に負える者ではないないことを彼らに教えたのも井川だという。
そして最近代が変わり、井川が実権を握ったこともあって、過去の負の遺産を清算しようとした彼が見せしめ的に狙われたのでは、というのが今のところの彼女の説だ。
「そんな危ないことを」
「仕方がないわよ。それもトップの仕事みたいなものでしょう。井川さんが自分の代でそれをどうにかしようと考えているのなら、表面的には皆、方針に従うわ」
「……」
分かっていたことだ。杏との結婚で手にしたものすべてが彼にとって利益になるものばかりではないということは。それでも自分の持っていたものが井川をこんな危険に晒す原因になったことが、杏には苦しくて仕方がなかった。




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