『いつまでこんな風に余所余所しく抱き合うことになるんだろうね』 井川が呟いたその一言が耳から離れない。 井川を仕事に送り出した後、掃除がてら寝室を整えていた杏は、洗濯するシーツを剥がしながら深いため息をついた。 ベッドで彼に身を任せることに躊躇いはない。 ただ、その後となると話は別だ。 すべてを委ね、井川に素直に甘えることができない。こんなことを言ったり求めたりしたら彼に嫌がられるのではないかという思いが先に立ち、どうしても遠慮がでてしまう。自分の中で予防線を張ってしまい、そこから踏み込むことができなかった。 例えば、彼とのセックスの後、彼女は必ずといっていいほど自分の寝支度を直す。よほど疲れていてそのまま寝落ちたりした時は別として、一旦ベッドを離れ下着やナイティーを身に着け直してから再びベッドに戻るのが当たり前になっている。 杏だって彼と肌で触れ合うことは嫌ではない。むしろ、この時だけは井川という男を自分だけのものにしておくことが許される唯一の時間なのだから、嬉しくないはずがなかった。 だが、翌朝の明るい光の中に晒された時、前夜の名残を引きずり、下着さえ着けていない自分の姿はさぞかし滑稽で、無様に見えるだろう。 愛されているという確証もないのに、そんな余韻を身に纏うことが果たして自分に許されるのか。 彼女にはそれが分からないのだ。 昨夜も彼と抱き合った後、杏はいつものようにそっと体を離してベッドから下りようとした。 そんな彼女の肩を背後から伸びてきた腕が掴まえる。 「どこへ行く?」 何時になく不機嫌そうな声に、杏は彼に背を向けたままでびくりと体を震わせた。 「あ、寝る支度を」 「支度?」 彼女がこうするのはいつものことで見慣れた光景のはずなのに、井川は珍しくあからさまな拒否反応を示した。 「このままではいけないのか?それともこうしていることが嫌なのか?」 それを聞いた杏は驚いた顔で彼を振り返った。 「嫌だなんて、そんなこと」 むしろそっちの方が不快に思うのではないですか、と杏は心の中で続きを独り語つ。 「それなら、わざわざベッドを抜け出す必要はないだろう」 「そ、それはそうだけど……」 そう答えながらも、杏はすぐ目の前の床に落ちている下着を拾い上げようと身を乗り出した。しかし指先がショーツに触れるやいなや彼女の体は後ろへと引かれ、バランスを崩した杏はそのまま仰向けに井川の下に組み敷かれる。 「どうしてもそれが必要なのかい?」 ついさっきまで彼がいた場所に、井川は再び指を這わせてくる。 「こうしている間はこんなものはいらないよね」 そう言って彼は杏の手から下着を奪い取ると足元へと投げ、同時に自分の指を彼女の中へと滑り込ませる。 吐こうとした抗議の言葉は小さな悲鳴へと変わり、ベッドに押し付けられた腰が跳ねて浮く。 井川はそれを押し戻しながら指の本数を増やし、彼女の奥深くまで潜り込ませた。 「そこ、ダメっ」 彼女の弱いところを中心に、内側をかき回す感触に身悶えする杏に、井川はひたすら快感を与え続ける。そして杏が軽く達したのを見て指を引き抜くと、今度はそこに自身を押し当ててゆるゆると腰を進めていった。 ―― 満たされるこの瞬間だけは。 杏は五感のすべてで彼を感じながら、彼に縋りつく。自分を揺するたびに大きくうねる彼の筋肉をてのひらで押し、広い背中に爪を立てて突き上げに抗う。 何度も繰り返される営みは常に甘やかで、彼女はしばしその憂いを忘れ、全身全霊で彼の求めに応えた。 昨夜の井川はいつも以上に強引で、やっと離してもらえた時の彼女はもう何をするのも億劫なほど疲れ果てていた。だから朝になり、彼に背中から抱き込まれたまま目覚めた時の狼狽ぶりは、今思い出すのも恥ずかしいほどだ。 そんな彼女を井川はただじっと見ていた。少し憂いを帯びた、苦笑いの表情で。 「はぁ……」 自分にはよく分からない。 なぜ彼があんな執拗に彼女を求めたのか、そして何がそんなに彼を苛立たせたのか。 物思いに耽っていた杏は、室内に響き渡るクラシカルな電話のベルの音にはっと我に返った。 「はい、桐島でございます。あ、はい。ええ……えっ?主人が?」 リビングに戻り、一呼吸おいて電話に出た彼女の声と顔色が変わる。 「はい、ええ、分かりました。すぐに伺います」 杏は受話器を置くと、そのままクローゼットへと駆け込んだ。そして一番手前にあった服をハンガーから引き抜き、着ているルームウエアを乱暴に脱ぎ捨てる。 荷物を持ち、外に出たところで会社から差し回された車が玄関に滑り込んできて、彼女はそのまま車上の人となった。 電話は井川の秘書からのもので、彼が病院に運び込まれたという知らせだった。まだ詳しい状況は会社側も把握していないというが、いつもは冷静沈着な秘書の慌てぶりは尋常なものではなかった。 一体彼に何があったの? 何も知らされず車の中でパニックに陥りそうになりながら、杏は固い表情のまま、ただひたすら震える自分の手をじっと見つめていたのだった。 HOME |