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Chapter V

   躊躇いのラプンツェル  14


井川の奮闘の甲斐あってか、一度は緩みかけた桐島グループの結束は少しずつ元に戻りかけている。しかし桐島家として抱えてしまった、土地がらみの訴訟を始めとする難事は未だ解決の目途が立たず、裁判費用だけでもかなりのものになりそうだ。ましてや今後賠償などという事態に陥れば、杏の持つものだけでは立ちゆかなる可能性も捨てきれない。
事前に専門のコンサルタントを交え、相続した財産から比較的容易に動かせそうなものをピックアップするだけでも大変な作業だったが、実際にこれを動かすとなるともっと煩雑な工程を経なければならないと思うといささかうんざりする。
事情を知る梨果はすぐにでも自身の持ち分を処分して、と言ってはくれるが、税法上問題になるものもあり、話はそう簡単には進まないのが現実だ。
結婚前に彼女が住んでいた母屋の土地や建物の大半を相続した母親は未だ気落ちしたまま体調を崩して家に引き籠っている状態だし、長姉の柚季はすでに臨月に入っていて、今はあまりストレスをかけたくないのでこの問題自体を持ちかけてはいなかった。
母親の方は回復を待って、柚季には産後少し落ち着いた頃を見計らって、改めて相談しようということで姉妹の間では合意ができている。


「いざとなったらここも……仕方がないか」
杏が見ているのは、彼女が子供の頃によく出かけた別荘についての書類だった。自然豊かな避暑地にあるそれは、休みには兄姉たちと一緒に長逗留したものだ。最後に行ったのは確か穣が亡くなった年の夏休み。それ以降は姉妹の誰からもその話は出なくなった。
杏たちにとって、穣との最後の思い出を作った場所でもある。
相続の際に杏が今住んでいる離れの土地家屋等と一緒に譲り受けたが、ここも売却対象に入っていた。
「何だか寂しいな」
こんなことにさえならなければ、将来は家族で使えたかもしれない。かつて自分がそうであったように、子供たちを連れて遊びに行けば、皆さぞかし喜んだだろう。

子供……か。
杏はそっと自分のお腹に手を当てて、ため息をついた。
井川とベッドを共にするようになってしばらく経つが、まだその兆候はない。二人の間の暗黙の了解で、最初から避妊などしていないのだから、いつそうなってもおかしくはないのだけれど。
彼女が妊娠を望むのは、もちろん井川の子が欲しいという純粋な気持ちもあるが、理由はそれだけにとどまらない。杏が井川の子を産むことで彼の桐島の中での立場を明確にし、その地位を盤石にするためにも急がれることではあるのだ。
以前その話を柚季にした時に、姉は少し困ったような顔でこう言ったことがある。
「こういうことは本当にタイミングなの。前の……哲哉さんとの時に、私も今のあなたと同じようにすぐにでも子供が欲しいと思った時期があったわ。理由は少し違うけどね」
長姉の柚季は、結局最初の結婚では子供を持つことができなかった。その後に起きた泥沼の離婚騒動を考えると、巻き込まれる子供がいなくてむしろ良かった、などと今だから言えるのだが、当時の姉はそのことでかなり苦しんだらしい。
「だから今回はびっくりしたのよ。まさかこんなに早くに赤ちゃんを授かるとは思ってもみなかったから」
現在の夫である神保とは、入籍して数ヶ月で妊娠が分かった。
二人とも三十代の落ち着いた雰囲気を持つ夫婦は共にそれを喜び、今は新たな家族の誕生を心待ちにしている。
「まだ結婚したばかりなのにあんまり意地になって『どうしても子供をつくらなきゃ』なんて力が入り過ぎたら、お互いに白けてしまうわよ」
「でも……」
少し意固地になりかけた杏に、柚季がにっこりと微笑む。
「気持ちは分かるわ。井川さんが今置かれている状況からしても、早く彼が落ち着けるようにしてあげたいって思っているんでしょう?」
図星を指された杏は思わず俯いた。
「でもね、子供ってそんな理由で迎えるものではないと思うのよ」
柚季はそう言って自分の大きく突き出したお腹を優しく撫でる。
「両親が信頼し合って、愛し合って、自分以外のものも自分と同じように慈しめる。そう思えないと生まれて来る子供は不幸だわ」
彼女らの両親にその気持ちと子供を育む覚悟が欠けていたのは周知の事実だ。そんな環境で育った三姉妹はそれぞれが満たされぬ思いを持ったまま成長し、その時々で苦しみ悩んだ。
杏が彼に気持ちを素直に伝えられないのも、自分が他人に愛され必要とされているという確証が持てなかった子供時代の経験からきているのだ。

「あなたずっと井川さんのことを好きだったじゃない?その彼と結婚できたのだから、そんなに焦って自分を追い込まなくても、そのうちできるわよ」
確かに今彼の妻の座に納まっているのは杏だ。だが彼女は知っているのだ。井川が最初に望んでいたのは目の前の姉、柚季であることを。
穣が早世した後、早い段階で父が井川を梨果の婿に迎えたいと考えていたことは周囲の誰もが気付いていた。恐らく彼自身もそうなることを予測して、自らの叶わぬ想いを制し、その分梨果に気持ちを向けてきたはずだ。だが、次姉はそれらの期待を見事にすべて打ち砕き、井川の存在をすっぱりと切って捨てた。
その時から、彼は誰にも気持ちを気取らせなくなった。

「彼の気持ちが分からないの」
ぽつりと呟いた杏の言葉に、柚季はおやっという顔をした。
「どう思われているのかも分からないし、何を求められているのかも分からない。ううん、もしかしたら彼は私のことなんて、何とも思ってないのかもしれない」
「杏……」
「怖いの。彼にそれを確かめるのが。もしそうだって肯定されたら……私、どうしたらいいのか」
一緒に居ても、一向に縮めることのできない心の距離。
杏が想うほど彼が自分のことを思ってくれているなんて言うつもりはないけれど、側にいるからにはせめてその存在を認めてもらいたい。
だからいつも彼女は問うのだ、自分にできることがあれば教えてほしいと。けれどいつも彼から返ってくるのは「君は何も気にしなくてもいい」という言葉だけだ。
ベッドでは夜ごと体を重ね、彼女を求めながらも井川は決して自分の気持ちを口にしない。そんな彼の心が掴めないままに抱かれ続けることで、杏は不安を募らせていく。

責務だから仕方なく彼女を抱く。それが夫としての務めだから。そう考えるとたとえそれが事実でも気が滅入りそうになる。
「もしかしたら私、彼にとって重たい存在なのかなぁ」
あの時つい口をついて出た「義務」という言葉。それが今になって自分自身に跳ね返り、杏の心にずしりと重く圧し掛かっていたのだった。




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