父、継春が所有していた会社の権限は打ち合わせてあった通りにほぼすべてを井川が継承することになったが、彼は遺言で預貯金や有価証券そして不動産の半分を妻に遺しただけでなく、あとの半分を三人の娘たちに均等に分配するように手配していた。 不思議なことに、生前あれだけ反目していた次女の梨果にも他の姉妹たちと同等分を受け取る権利が設定されていたのだ。 そしてそのこと以上に世間が驚いたことは、不仲だった父親からの財産分与などその場で拒否して書類を叩きつけると思われていた彼女が、あっさりとそれを受け入れたことだった。 「これで私も金に靡いた計算高い女の仲間入りってことね」 相続の手続きを終えた梨果は、妹を前に苦笑いした。その手には桐島家と彼らが所有する会社に関するゴシップ記事が書き立てられた週刊誌が握られている。 それは桐島グループのトップであった父親とはもう十数年来絶縁状態だった娘の一人が、彼の死後急に遺産の取り分を要求し、まんまと大金をせしめた、といった内容だ。一応、記事の中では匿名になっているが、その娘というのが梨果を指していることは読む人が読めばすぐに分かることだ。 「ごめん、梨果姉さまを悪者にしてしまって」 申し訳なさそうに俯く杏を前に、梨果は丸めた週刊誌でぽんぽんと自分の肩を叩く。 「何もあなたが悪いわけじゃないでしょう。酷い書かれ方だけど、まぁ事実だから仕方がないわね。それに事情が事情だし」 前社長の死後に発覚した一部重役の離反騒ぎと、それに続く経営状態の悪化はグループ全体の結束を危ういものにしつつあった。というのも、ワンマンだった継春が今まで金と力でねじ伏せていた社内の不満が、ここにきて一気に噴出したからだ。 一度重石が取れてしまった彼らを、トップの座に就いたばかりの井川の力で抑え込むことはなかなか容易ではない。それに、この機に乗じて桐島に反感を持つ者たちが勢いづいたのも頭の痛いところで、かつて継春が違法すれすれの手段を用いて手に入れた土地等について、元の所有者等が自身の権利を主張して裁判を起こしたのだ。 こうした箍の緩みに付け込む輩は日々増殖していて、会社以外の多くの権利を所有することになった母親や杏のところからも多額の財産を掠め取ろうと狙っていた。 それを阻止し、少しでも実損を少なくするために、最初は財産分与を放棄しようと考えていた柚季や端からそんなものを貰うのを嫌がっていた梨果も、弁護士たちと相談の上でとりあえず相続を承諾することにしたというわけだ。 「当面の税金は何とかなったし、あとは折を見て、何だかの形でそちらに返すことになるわね」 あちらこちらの土地を売却したり、物納したりして、梨果の負担は最小限に抑えた。それでなければ一介のサラリーマンの妻であり、自身もOLである彼女の経財力では、相続税はとても支払えるような額ではない。 「まぁ、毎年かかるものについての相談は、そちらが落ち着いてからの話になりそうかな」 そう言って梨果はリビングの向こうにちらりと目をやった。 「井川さん、仕事なの?」 「……ええ。ここのところずっと、休みなんて取っていないわ」 今日は日曜日。 一真が出張中で家に居てもすることがなかった梨果が杏のいる離れを訪ねて来ていた。 本来ならば井川も家にいることが多い日ではあるのだが、今は彼女たち以外には誰もこの家にいる気配がない。 「このまま何とかなればいいけど」 「彼も精一杯頑張ってくれているから」 グループを離反した一派は、相変わらず井川を追い落とそうと画策を続けていた。それに対抗するためには桐島家の本流である杏の存在がカギを握るはずだが、なぜか彼はあまり妻を矢面に立たそうとはしない。彼女では役不足なのか、それとも単に彼の戦略の中では杏を必要としていないのかは分からないが、毎日家で待つことしかできない無力感は日に日に大きくなっていくように思える。 「最近あんまり寝てないんじゃない?何だか顔色が悪いわよ」 梨果に指摘された通り、杏はここのところずっとぐっすりと眠れない日が続いていた。井川には先に休むように言われているが、仕事や雑事に忙殺されている彼のことが気になってなかなか寝付けなかった。 井川がベッドに入って来る時にはそれと気づかれないように背中を向けて寝たふりをしているが、彼の寝息が背後で聞こえるまではどうしても安心して眠れないのだ。 「まぁ、杏もあんまり根を詰めないようにね」 「……うん。ありがとう、梨果姉さま」 その夜遅く。 杏はいつものように日付が変わる頃に帰ってきた井川を出迎えた。 「お帰りなさい」 「ただいま。どうしたんだ?まだ寝ていなかったのか」 常先に休むように言われている杏が今夜はまだ起きていることに、井川は少し驚いた顔をする。 「ええ。たまにはお帰りなさいを言いたくて」 「そうか。ありがとう。分かったから、もう君は先に休みなさい」 それを聞いた井川は表情を和らげ、杏の肩を軽く叩いて側を通り過ぎようとする。 「あの……」 「うん?」 何か言いかけた杏に歩きかけていた彼が立ち止まると、彼女はその背に語りかける。 「ごめんなさい」 杏の言葉を訝しむように、彼が首を傾げた。 「ごめんなさい。何もかも、あなたに背負わせてしまって」 「杏、急に何を……」 「だって、本当なら私たちが負わなければいけない負担まで、全部あなたが背負い込む形になってしまったせいでこんなに大変な目に遭っているのだから」 杏はスーツに手を添えると、その背にそっと額を押しつけた。 「父の側近のままだったら、私なんかと結婚しなければ、こんな面倒なことに巻き込まれることもなかったかもしれない。だから……ごめんなさい」 井川は杏を振り返り、彼女を自分の胸に抱き寄せた。 「何を言い出すのかと思ったら。君はそんなことを気にしなくていい」 「でも」 なおも言い募ろうとする彼女の顎を指で押し上げると、井川は唇でその口を塞いだ。最初は軽く、やがてそれは舌を絡めあう様な深い口づけに変わっていく。久しぶりに触れた彼の唇の熱さに翻弄されながら、杏はスーツの背に腕を回した。 「杏」 彼女を解放した井川は、息を乱す杏の両腕を軽く掴んだ。 「どういう形であろうとも、自らの有り様を選んだのは私自身だ。だから君は余計なことは考えなくてもいいんだ」 彼はそう言うと再び彼女を抱きしめる。 その温もりが愛しくて、杏は思わず井川の胸に顔を埋めながら囁いていた。 「今夜は」 「ん?」 「今夜は、あなたが休むのを待っていていいですか?」 少しの間があって、井川はふっと息を吐き出すと彼女の頭を撫でた。 「先にベッドに入っていなさい。私も後から行くから」 そしてそっと彼女の背を押すと、彼は自室へと向かって歩き出す。 その背中に滲む疲労を見て取った杏は、決してそれを自分と分け合おうとはしてくれない彼を複雑な思いで見つめていたのだった。 HOME |