梨果の話を聞いていた一真は思わず言葉を失った。そしてそれは彼女たちを遠巻きにしていた者たちも同じだ。 「梨果さんの話は本当なのか?」 驚きに目を見開いている柚季に、側にいた神保が問いかける。しかし彼女も戸惑ったような顔で夫を見上げた。 「分からないわ。少なくとも私は知らなかった、そんなことがあったなんて」 当時まだ小学生だった杏と双子の兄の穣は下校中、並んで信号待ちをしていた時に交差点で衝突して弾き出された車に突っ込まれた。 あの事故の際、双子の急を聞いて駆け付けた母親は、息子の死にショックを受け一時的な錯乱状態に陥った。そのため柚季はずっと母親についていなければならず、集中治療室に入った杏の方には妹の梨果が付き添っていたのだ。 後から来た父がどの時点で病院に入ったのかは分からない。 ただ、柚季たち姉妹が先に母親と一緒に聞かされた状況では、杏は酷い怪我を負ってはいるものの何とか一命を取り留めたが、穣の方は運び込まれた時点ですでに心肺停止の状態だったということだった。 一緒に事故に遭った二人の生死を分けたのは、偶然以外の何物でもない。 たまたま立っていた位置が正面から見て右だったか左だったか、それだけの違いで車から受けた衝撃に差が出たとしか考えられないような状況だった。 実際のところ、杏も命に別状はないとはいえかなりの重傷で、退院するまでにふた月以上かかったのだからどれほどの勢いで突っ込んできた車に跳ね飛ばされたのかは想像に難くない。手術室から出てきた時、彼女は両足と肋骨の骨折以外にもあちらこちらに包帯を巻かれていて、意識もはっきりしていない様子だった。 それほどの事故であったにもかかわらず、杏は奇跡的に死を免れた。 なのに父親は、それを喜ぶどころかむしろ杏が穣の死の原因となったとでも言うような口ぶりで、彼女の生還を責めたのだ。 梨果は震える声で、しかし吐き捨てるような口調でこう続ける。 「親が自分の子供に……我が子に優先順位をつけるなんて、信じられなかった。一体あんたは何様なのよって愕然としたわ。それまでだって家族のことなんてあまり顧みない人だったから、そんなに可愛がってもらった記憶なんてないけれど、それでも父親だ、家族だって思ってた。でも、あの一言でそんなものは幻想でしかなかったんだって、はっきりわかったの」 そこまで聞いた柚季が振り返ると、彼女の後ろにいた杏が真っ青な顔で井川に縋るようにして立っていた。それを見た神保は無言のまま、彼女を連れてここから離れるよう、井川に目配せする。 ふらつく杏を井川が支えながらその場を去ったのを見届けた二人は、共に頷き合うと再び梨果の話の続きに耳を澄ませる。 「あの人にとって、娘の命の価値なんて、あって無きに等しいものだったのね。もしその時一緒に事故に遭ったのが私でも姉さんでも、きっと同じような反応をしたんじゃないかしら」 そこでくっと息を吸うと、彼女は引き攣った声で笑いだした。 「酷い話よね、実の親にそんな風にしか思って貰えないなんて。そう思わない?私たちってそんなに価値のない人間なのかしら?そこまでずたぼろに言われているのに、何で私たちがあの人の最後を見届けないといけないわけ?子供をまるで物扱いするような、そんな男をどうして……」 「梨果、もういい」 一真は話を遮るように、彼女の顔を自分の胸に押し付けた。これ以上は聞くに堪えないとでもいうように。 しばらくすると、辺りには彼女の押し殺したすすり泣きの声が漏れ始める。それを聞いていた姉夫婦は足音を忍ばせてそっとその場を後にした。 「柚季、今の話、杏さんは……」 病院の廊下まで戻り、神保は固い表情を崩さない妻の肩を抱き寄せた。 「多分、杏は今まで知らなかったと思うわ。あの子、病院に運び込まれて丸2日、意識が戻らなかったって聞いているから」 柚季自身もこの話は今日初めて聞いたのだ。恐らく梨果は誰にもこのことを明かさず、自分の胸だけに収めていたのだろう。だが、これで今まで知らなかった妹と父親の確執が激化した理由の一端が分かったように思えた。 「神保さん、柚季さん」 呼ばれて振り返ると、廊下の向こうからこちらに向かって来る井川の姿が見えた。 「すぐに戻って下さい。社長の容態が……」 「お父様が?分かりました。梨果の方にも伝えて下さる?」 「はい、それから私も参りますので」 「お願いします」 それだけ言うと、神保がお腹の大きな彼女を庇うようにして廊下を進む。 その背中を見送ることもなく、井川は梨果と一真がいる中庭へと急いだ。 「園田さん」 そしてまだベンチに座ったままの二人に背後から声を掛ける。 「戻って下さい。もう先ほどから医師が病室に詰めていて……」 それは継春の臨終を見届けるためだと彼らには分かっている。だが梨果は井川の呼びかけを遮るように立ち上がると、大きく首を振った。 「行かないわ。私とあの人は縁を切ったの。もう関係ないのよ」 「梨果、今はそんなことを言っている場合じゃ……」 「井川さん、後は母や杏たちと相談して、良いように取り計らって。この先も私は一切タッチしないから」 梨果はそれだけ言うと病室へと戻る道とは反対側に向かって走り出す。 「おい、梨果。ちょっと待てよ。梨果?」 慌てて一真が後を追っていくのを見て、井川はもと来た道を急いで戻って行く。 結局梨果たちはそのまま病室に姿を現すことはなく、彼女を欠いた家族に見守られながら、桐島家の主はその生涯を閉じたのだった。 HOME |