BACK/ NEXT / INDEX



Chapter V

   躊躇いのラプンツェル  10


「では、行ってきます。今夜は会合で遅くなるから、先に休んでいて下さい」
「……はい。分かりました。行ってらっしゃい」
寝室を共にするようになったからといって、二人のどことなく他人行儀な関係が劇的に変化することはなかった。ただ、ベッドの中での井川は彼女を情熱的に愛してくれたし、その時だけは杏も気後れや遠慮を捨てて彼にすべてを委ねることができた。
この彼の行為の熱が義務からくるものなのか、それとももっと他に、何か別のところに理由があるのかを判別することは杏にはできない。それでも彼と体を重ねることで井川を夫として、また一人の男性として以前より身近に感じることができるようになったのが何より嬉しかった。

意外なことに、二人の関係の微妙な変化にいち早く気付いたのは、姉妹の中で一番おっとりしていて周囲からは男女のことにはかなり疎いと思われている長姉の柚季だった。もちろん、直接彼女から何か探りを入れられるようなことはなかったが、それでも今までなら故意に避けていた夫婦間のことなども、少し踏み込んだ内容まで打ち明け話ができるようになった。
そして常に共闘している姉たちのことだ、恐らくは次姉の梨果もその話は聞き及んでいることだろう。しかし今のところ彼女からは何のリアクションも返ってきていない。理由は定かではないがかなり激しく反目し合っている井川と梨果の間柄を考えれば、次姉も妹夫婦のことに一定の理解を示してくれていると思ってもよいのかもしれない。


そんな中で姉妹それぞれが少しずつ落ち着いた結婚生活を積み上げ始め、杏と井川が結婚してから半年が経った頃。
予てより病気療養中だった父、継春の容態が予断を許さない状態にまで悪化した。
それまでも何度か危篤状態に陥っては持ち直すことを繰り返していた父だったが、今回は医師からも、もうすでに手の施しようがないと断じられていた。
危篤状態に陥った父の元には、母親の美咲、杏と井川、柚季と神保夫妻も駆け付け、その病状を見守っている。
そして……
「梨果、こんな時にまで。いい加減にしないか」
その場には遅れて梨果も到着していた。無論、自発的になどということはなく、母親と姉妹の懇願もあって、夫の一真が嫌がる彼女を半ば無理やりに車に押し込めて連れて来たのだ。
病室の入口に立ったまま、そこから一歩も動こうとしない梨果を一真は抱えるようにして室内に引きずってくる。そしてベッドの近くで彼女を立たせると、そこに横たわっている父親の方へと背中を押し出した。
「お前の親父さんだろうが。ちゃんと顔ぐらい見てやれよ」
「必要ないわ」
ぷいと顔を背けた梨果は、苛立たしげに背後に立つ一真を睨んだ。
「もういいでしょう?ここまで来たんだから、義理は果たしたわよ」
彼女は周りにいる者たちをぐるり見回し、そう宣言すると踵を返した。
「梨果?」
「梨果さん」
「梨果姉さま?」
母親や姉妹たちの声にも応えることなく、彼女は身をひるがえすとドアから病室の外へと飛び出した。
慌ててその背を追いかけた一真が廊下の途中で彼女に追いつき、やや乱暴に腕を引くと珍しく声を荒げた。
「梨果、一体お前は……」
だが、彼はそのまま言葉を失った。彼が見た妻は目に一杯涙をためていたのだ。
一真に腕を掴まれた梨果は手で口元を押さえ、咽びながらその場にしゃがみ込んだ。
「ダメ……ダメなの。どうしてもあの人を許せない。許せないのよ」
床に座り込んだまましゃくり上げる妻の様子に普通ではないものを感じ取った一真は、彼女を抱え上げると人気のない中庭に向かう。空いているベンチに梨果を座らせた彼は、両手で顔を覆い、肩を震わせている彼女にポケットから取り出したハンカチを渡すと隣りに腰を下ろした。
直ぐ近くに後を追いかけてきたらしい杏と井川、それに柚季たちの姿を認めた一真は、彼らに向かって小さく首を振った。そのサインで皆二人の側までは来ることなく、少し離れた場所からこちらを窺うように様子を見ている。
一真の胸に頭を預けた梨果は、そんな周囲に気付くことなく項垂れたままだ。

「親父さん、もう長くは持たないみたいだぞ。いいのか?このままで」
ベンチに座ったまま、頑なに口を閉ざす彼女の肩を抱いた一真が、あやす様にぽんぽんと叩く。
「何がそんなに許せないんだ?」
自分の家族と円満な関係を崩したことがない彼には、なぜ梨果が実の父親にそこまでの憎悪を持ち続けるのかが理解できないというのが正直なところだ。
「お前に仕送りもしないで、見捨てたことか?あの曽田って奴のことか?それとも就職を邪魔したことか?」
そのあたりのことは、結婚式に来た曽田本人の口からあらましは聞かされている。だが、彼の言葉に梨果は首を横に振る。
「それだけじゃない」
「まだ何かあるのか?」
わざと軽い調子で受け答えている一真だが、目の前の梨果の様子を見れば原因はもっと根深いところにあるのだろうことは想像がついた。
「……あの人、言ったの」
「ん?」
梨果の呟くような声に、一真の手が止まる。
「あの人って、親父さんのことか?」
彼女は頷くと、喉から絞り出すような声を上げた。
「あの人、言ったのよ。12年前のあの時、あの事故の時」
「あの事故って……杏ちゃんたちが巻き込まれたやつのことか?」
彼女と結婚した際に、彼は自分の叔母から梨果には早世した弟が、杏の双子の兄がいたということは聞かされていた。そしてその原因が事故であったことも。
「そう。あの時、病院であの人は言ったの。まだ集中治療室にいた杏のベッドの側で」
「何を、親父さんは何を言った?」
一真の問いに、梨果は急に顔を上げてきっと空を睨んだ。
「信じられる?あの人、傷だらけのあの子の前で、医師に向かってはっきりとこう言ったのよ。『この娘のことなんてどうでもよかった、それよりどうして息子の方を優先して助けなかったのか』ってね」




≪BACK / NEXT≫ / この小説TOP へ
HOME






Photo by 7style