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Chapter V

   躊躇いのラプンツェル  1


最後まで残っていた長姉の柚季が一足先に式場に向かい、一人残された控室。
杏は落ち着かない様子で椅子に座ったまま、手に持ったバラのブーケを握りしめる。
ふと目を上げた先にある鏡に映るのは、何かに怯えたような顔をした花嫁姿の自分。

何で私、こんなに不安なんだろう?

今日は人生最良の日。
ずっと想い続けたあの人と、晴れて夫婦になれるという、嬉しい日であるはずなのに。
杏は現実から目を背けるように視線を落とすと、染みひとつない純白のドレスに指先を滑らせる。デザイナーに依頼して作らせたこのドレスはオートクチュールの一点もので、杏と母親の美咲のお気に入りだ。薄いベールにも細かい細工が施してあり、ブーケとお揃いのヘッドドレスと相まって品よく華やかな雰囲気を醸し出していた。
十年以上前に柚季が結婚した時も、姉は豪華な花嫁衣裳を身に着けていたと記憶しているが、今回彼女が来ているドレスはその時以上に力が入っているように思える。というのも、次姉の梨果の結婚の際にまったくタッチできなかった母は、そのうっぷんを晴らすかのように、末娘の結婚にこれでもかと言わんばかりの贅沢な支度をしたからだ。
これは事実上、彼女が婿を取ることになるのを差し引いても、あまりに大がかりで身に過ぎたもののように思える。それもそのはず、本来ならばここにいるのは自分などではなく、姉の梨果であるはずだったのだから。
それは周囲から、そして杏の結婚相手である井川自身も望んでいたであろうことは想像に難くない。しかし運命の女神のいたずらか、杏は彼の伴侶となるよう定められた。彼女が少女の頃からずっとずっと好きだった、井川の妻になるチャンスを与えられたのだ。

なのにどうしてこんなに胸が苦しいのだろう。

理由の分からない不安に押し潰されそうになりながら、杏は必死に気持ちを落ち着かせようと何度も自分に「大丈夫、大丈夫」と言い聞かせる。だが、そうすればするほど、これから自分が踏み出そうとしている現実に心が押し潰されそうになるのだ。
そんな彼女の思いを断ち切るかのように、突然ドアをノックする音が部屋の中に響く。
「そろそろよろしいでしょうか?」
「は、はい。今出ます」
係の人に扉の向こうから声を掛けられた杏は、上ずった声でそう答えた。
たとえ気持ちの準備ができていなくても、時間が来れば彼女は衆人の前に引き出されることに変わりはない。何せそれから逃れる術を自らの意思で捨ててしまったのだから。
杏は小刻みに震える手で上げていたベールを下ろすと、最後にもう一度薄い布越しに目の前の鏡をのぞきこむ。そして覚悟を決めて、そこに写った自分の姿に向かって小さく頷いた。


控室を出た杏が案内役に先導されて辿りついたのは、ホテルの屋内に設けられたチャペルだった。
その入口の扉の前ですでにスタンバイして彼女を待っていたのは、彼女の父親ではなく姉の柚季の再婚相手である神保だ。本来ならば彼女と並んでバージンロードを歩くのは父親の継春の役目なのだが、近年体調を崩して長期療養をしており、特に先日大きな発作を起こしてからは医師から絶対安静の指示が出されていた。
「杏ちゃん、綺麗だよ。お義父さんもさぞかし君と一緒に歩きたかっただろうね」
そう言って差し出された義兄の肘に手を添えながら、杏はベールの向こうで小さく笑った。

そんなことはないわ。だって父は私のことなんて意に介していないんだから。

父親の関心は昔も今も如何にして桐島の行く末を安定させるか、という一点にしかない。
ともすれば彼女の結婚は井川を完璧に桐島に取り込むためのセレモニーであり、彼を自分の後継に据えるための最初のステップという位置づけでしかないのは明白だ。
そんな父親に反旗を翻し、自らの意思で家を出た梨果はともかくとして、柚季も自分も桐島にとっては動かしやすい手駒のひとつでしかない。しかし杏はそれを承知の上で敢えて駒として生きる道を選んだのだ。
井川が自分の夫になるのなら、それでも構わない。
そう思ったからこそ、彼女は姉たちが差し伸べた手を取らなかったのだが、情けないことに結婚式が近づくにつれて自分の選択が正しかったのかが分からなくなってしまった。
友人たちからは「それは多分マリッジブルーだ、結婚してしまえばそのうち落ち着くよ」と笑われたが、胸に巣食っている不安の原因は果たして本当にそれだけなのだろか。

所在無げにぼんやりとしていた杏に、神保が合図を送る。
はっと気が付けば扉の向こうからは入場の音楽が流れ始め、周囲のスタッフは緊張の糸を張り、タイミングを計りながらその瞬間を伺っている。

もう引き返せない。進むしかない。

大きく深呼吸をしし、きつく唇を引き結んだ彼女の背を式場の係が軽く押して前へと促す。
不安と期待が交錯する未来へと繋がる扉が今、杏の前に開かれようとしていた。




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