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Chapter U

   スリーピングビューティーの憂鬱  9


まだ何も決まっていないので、と遠慮する井川をブライダルサロンのスタッフに紹介し、彼の向かい側に座った柚季は共に担当者の説明を聞くことになった。
まず最初に大まかな招待客の人数を聞いたスタッフだが、答えを聞いて一瞬困惑した表情を浮かべた。通常の挙式、披露宴では、大概は最初にパッケージプランを選び、そこからオプションを加えていくのだが、井川たちの場合それに当てはめるのはまず不可能であることが分かったからだ。
「ディナースタイルで800名様以上ですか……それは大規模な披露宴ですね」

井川の希望を聞いた柚季は、杏がへそを曲げた理由が分かったような気がした。
ここ数年、徐々に健康状態が悪化している父は、恐らくこれを機に井川への権力の移譲を本格化していくつもりなのだろう。
彼は、というよりも父はこの披露宴を純粋に結婚披露宴ではなく、娘婿となった井川を次の桐島のトップに据えるという明確な意思表示の場にするつもりなのだ。昔から井川のことを慕い、彼の妻となることを夢見てきた杏にしてみれば、いかにも後継を得るための政略結婚の態を晒すことに失望するもの無理からぬことに思える。
仮にそうなれば、参列する人数は親族や友人だけでなく取引先の会社関係者も含まれるため、かなり大がかりなものになるであろうことは容易に想像がつく。ましてやそれが新しい桐島のトップのお披露目を兼ねるということにもなれば、尚更その規模が肥大し、仰々しくなってしまうのは致し方がない。
思い返せば自分たちの時も都内の有名ホテルの大会場を使い、両家で700名近くの招待客を招いて都合4時間以上、披露宴を捌くスタッフが大わらわだったと記憶している。
挙式までのスケジュールの簡単な流れと、念のためにホテルの一番大きな宴会場の空き状況を確認したところで神保が席に現れた。
ホテルの副支配人直々のお出ましは、多分スタッフがこの商談の規模の大きさを考慮して彼に顔つなぎを兼ねて挨拶に来てくれるよう連絡を入れたためだろう。
「当ホテルの副支配人の神保です。この度はご結婚がお決まりとのこと、おめでとうございます」
「井川と申します。ありがとうございます」
改めて名刺の交換をしている二人の間に立つ柚季は、和やかな口調とは裏腹に彼らの間に何かピンと張りつめた空気が漂っていることに気付き怪訝そうな顔をした。
いつも冷静な神保が人前で、特にお客の前でそういった気配を見せることは滅多にない。相対する井川も例え何かに気づいていてもそれを何事もなかったかのようにさらりとかわし、黙殺しまうタイプだからだ。
揃いも揃ってそんな二人が、無言のまま火花を散らす理由が分からない。
ピリピリした雰囲気に気づまりを感じながら、柚季は井川に向き直った。
「あの……教会を、式場の方をご覧になられます?私でよければこれからご案内しますけど」
遠慮がちな彼女の声に、井川はようやく神保から視線を外した。
「いえ、今日のところは時間も圧しているので。また杏さんと一緒にお邪魔しますから、その時にお願いします」
そう言って柚季ににっこりと微笑む井川はいつもの彼で、もう先ほどまでの剣呑な雰囲気は感じ取れなかった。


「桐島さん、ちょっとオフィスまでいいかな」
玄関までの見送りを断った井川とサロンの前で別れ、再び教会の方に戻ろうとした柚季を神保が呼び止めた。
「え、あ、これからですか?」
彼は頷くと、返事も待たずに彼女に背を向けて歩き出す。ついてくるのが当たり前のような態度にむっとした柚季だったが、それでも彼の後を追った。
従業員用の内階段を使い、彼のオフィスにたどりつくと、先に中に入った神保がドアを押さえて彼女に入室を促す。
「失礼します」
この前の時のこともあり、おずおずと歩を進めた柚季の背後でドアが閉まると同時にカチリという小さな音が聞こえた。
驚いて振り返った彼女を、後ろ手にドアを閉めた神保が見つめていた。
「じ、神保さん?」
彼が何をしたのかを悟った柚季は、慌ててドアに向かうが、その手はノブに触れる前に神保に絡めとられる。そのまま強く腕を引かれた拍子に、彼女は神保の胸へと倒れ込んだ。
「さっきの奴は、昔の男か?」
頭上から聞こえた声にはっとした柚季は目の前の体を押し返そうとするが、しっかりと捕えた彼の懐では動きようがない。
「違います。彼は……井川さんは父の部下で、末の妹の、杏の婚約者です」
「だがあいつが君を見る目は未来の義理の姉に向けるといった感じではなかったが」
「そ、そんなことを言われても困ります」
事実、柚季が井川を恋愛や結婚の対象として見たことはない。彼の存在を知った頃にはすでに彼女には婚約者がいたし、離婚後に桐島に戻ってからもそのようなアプローチを受けたこともない。
彼の好みは、どちらかといえばはっきりとした、自己主張のしっかりした女性だと柚季は思っていた。そのせいか、これまでも口さがない世間の人々は、井川は彼女の妹で次女の梨果の婿になるのではないかとよく噂をしていた。現に、父親から家を出た妹を連れ戻す役割を任されたのは他でもない彼だったのだ。
今でも梨果と井川の関係は良好とはいえない状況が続いていると改めて知ったのは、件の披露宴の時のことだ。妹は母親だけでなく、井川に対しても強い嫌悪感を表したのを見た柚季は、その悪感情の根深さに驚きを隠せなかった。
「無自覚か。君らしいといえば君らしいが」
神保は口の片端を少し上げて苦しげな笑みを作った。そして彼女が何かを言い返す間もなく、唇を重ねる。
最初は押し付けるだけの強引な口づけが、徐々に舌で互いの口内を弄る深くて熱いものに変わる。ここで止めなければという理性的な考えは激情に押し流され、後に残ったのは、どこから来るのかも分からない、抑えきれない衝動だった。




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