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Chapter U

   スリーピングビューティーの憂鬱  8


柚季が辞表を出してから数日が経った。
本当ならそろそろ他のスタッフに知れ渡る頃だと思うのだが、誰一人そのことを問う者がなく噂にもなっていないところをみると、どうやら彼女の辞職願は神保の手元で留め置かれたままになっているようだ。

どうしたらいいんだろう……
このままグランドオープンを迎えてしまえば、春のブライダルシーズンが一段落する6月一杯まで身動きが取れなくなる。それも、この間は週末だけでなく平日にもコンスタントに挙式、披露宴が入っているため、かなりの頻度で職場に出てくることになってしまう。
そうすれば必然的に神保とも顔を合わせなくてはならない。
柚季はふっとため息をついた。
決して仕事がしたくなくなったというわけではない。ただ、ここに来れば嫌が上にも神保の存在を意識してしまう、そんな自分の心の揺らぎが怖いだけだ。
彼だってそんな柚季の気持ちに気付いているはずなのに、神経を逆なでするかのようにたびたび彼女の視界に入ってくるから始末に悪い。

「桐島さん、そこにいる?」
教会内にある小さな演奏者控え室兼楽譜の保管倉庫でぼんやり考えごとをしていた柚季を、誰かが呼んだ。
「はい」
慌ててドアの外をのぞくと、入口から同僚が中を覗きこんでいた。
「フロントがあなたを探していたみたいなんだけど」
「私を?」
「ええ。お知り合いかしら、あなたにお客様みたい。行ってみてくれるかしら」
「あ、はい。分かりました」
柚季は誰もいない小部屋に鍵を掛けると、ホテルの本館にあるロビーへと向かう。
誰かしら。
式場の専属演奏者という位置づけの柚季は、このホテルでの挙式が決まったカップルやその家族以外と面談することはほとんどない。式場の下見に来た一般客には専門アドバイザーが対応するし、その他の業者に対してはホテルの事務方がすべて取り仕切ることが決まっているからだ。
首を捻りながらロビーに出てみると、そこにいたのは意外な人物だった。
「井川さん?」
呼ばれて振り向いたのは、父親の腹心であり、末の妹の婚約者でもある井川だった。
「柚季さん、お久しぶりです。先日はどうも」
彼女が会釈すると井川も軽く頭を下げて返す。
「こちらこそ。この前は失礼いたしました。それで、今日はどうなさったの?」
「実は急遽この秋に式を挙げることがきまりまして、今式場を探しているところなんですよ。それで参考までにこのホテルも見せて頂きたいと思いましてね」
それを聞いた彼女は驚いた。
離婚後に桐島の家に戻って来たとはいえ、現在柚季は両親や妹の住む家とは別の、以前は亡くなった祖母の住居だった離れの一軒家を使っている。たまに母親に呼び出されるか、さもなくば何か特別な用事でもない限り母屋に行くことはないし、あちらから離れに来ることもない。
特に彼女が勤めを始めてからは暇な時間がなくなり、母親と話す機会もめっきり減っていたためにこのことを聞いたのは今日が初めてのことだった。
「それはまた忙しいわね」
「社長からできるだけ急ぐように言われましてね。ただ、準備を考えると一番早くて秋口が精一杯です」
苦笑いを浮かべてそう言う井川を見ながら、柚季は内心首を傾げたくなった。
というのも、二人が婚約した当初、周囲からは妹の杏が大学を出たらすぐにでも一緒になるのではないかと思われていたにもかかわらず、その後は一向に結婚話が進展する兆しが見えなかったからだ。
柚季もどうなっているのかと何度か杏を問いただしてみたがその度に「まだそこまでは」とか「もう少し時間がかかりそう」という煮え切らない返事が返って来るばかりでまったく要領を得ない。
もっと不思議なことは、いつもならこういうことをせっつく性分の母親が今回に限ってはまったく口を挟む気配がなかったことだった。順番から言って、先に上の妹の梨果を嫁がせたいという意図があるのだろうと勝手に解釈していた柚季だが、それにしてものんびりと構え過ぎていた感じがする。
だが、もしもこの件に父親の思惑が絡み、式を挙げることを意図的に妨げていたならば、母親が急かさなかったことや結婚を引き延ばし続けていたことも、何となく納得できるように思えた。自分たちの縁組には少なからず家や会社の利害が影響を及ぼすことは自身自身で経験済みだ。

「まぁ、そうだったの。それはおめでとうございます。ところで今日は杏は一緒じゃなくて?」
「ええ、それがちょっと、彼女のご機嫌を損ねたみたいで……」
あたりを見回す彼女に、井川は困ったような表情で言葉を濁した。

おかしなこともあるわね。

柚季は怪訝そうな顔をした。
何だかんだ言っても、この結婚を一番望んでいるのは他ならぬ杏自身であることは姉妹の間では周知の事実だ。井川は妹が中学生の頃から恋心を抱いていた相手で、その想いが叶って晴れて結ばれるというのに、いざ式を挙げる段になって駄々をこねだすとは思えなかったのだが。
「まぁこんなところで立ち話もなんだから、相談窓口の方へご案内するわ。そこに行けばパンフレットもあるし、専門のスタッフがいるから予約状況だけでなく詳しい話も聞けるし。その後でもしまだお時間が大丈夫そうなら式場を案内しますから」
井川を促すと、柚季はエレベーターホールに向かい、上階行きのボタンを押す。
ちょうど目の前に来たエレベーターに乗り込み扉が閉まる寸前、ふと上げた視線の先にあったのは、少し離れた場所から冷ややかな目でこちらをじっと見つめる神保の姿だった。




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