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Chapter U

   スリーピングビューティーの憂鬱  7


神保に対する自分の気持ちが何なのか、それを考えることから目を背けたまま迎えた2月の半ば。
妹の梨果の結婚式と披露宴が執り行われた。
今月はプレオープン中ということで、式は週末限定、それも一日一組限りだったが、それもすでに5組目ともなればスタッフの手順も浸透し、自ずと周囲を見る余裕も出てくるようになる。
そんな中であのハプニングは起きた。

正直なところを言えば、自分と末妹の杏以外の家族が列席することに梨果がどう反応するか気にはなっていた。
父親との間の確執はもう10年以上も前からのことだが、妹と母親と疎遠になってしまった経緯は柚季もはっきりとは知らない。
柚季にしてみれば時期的に結婚生活が不安定になり始めた頃で、自分のことだけで手いっぱいだったし、何より頑なで自立心の強い妹は、たとえ姉妹の間であっても簡単に弱音を吐くようなタイプではないからだ。
しかし、まさかあの梨果が自分を見失うほど動揺し、あれほどまでの失態を演じるとは思ってもいなかった。
彼女の夫である一真に口止めされていたとはいえ、本人に何も知らせなかったことが今さらながらに悔やまれる。
ただ、極度の緊張と疲労で急に体調を崩し、病院に搬送された梨果の傍らに付き添う一真の様子に、柚季は一筋の光明を見出していた。この男性なら、肩肘張って一人で生きようとする妹を楽にしてくれるのではないかと感じたからだ。
月明かりの中、妹夫婦が乗り込んだタクシーを見送った柚季は、ほっと息を吐き出した。
座席に寄り沿って座る二人を見ていると、梨果のことを慈しもうとする一真の気持ちは疑いようがない。表面的には優しく扱われてもその実まったく心がなかった元夫とのことを思い出し、彼らには自分たちのような関係にようにはならないでほしいと密かに願っていた柚季だったが、どうやら妹たちの関係は良い方へと向かっているようだ。安堵すると彼女の自然と表情も明るくなる。

だがそんな柚季を待っていたのは、彼女の気持ちを乱すもう一つの懸案とも言える、神保だった。
「柚季」
暗がりから名前を呼ばれた彼女は、小さく悲鳴を上げて飛びあがる。
まさか、こんな日に神保が自分のところに来るとは思ってもいなかった。今日は梨果を迎えに行くのに慌ただしくホテルを後にしてしまったため、明日改めて彼の元に謝罪に赴いてことの顛末を説明するつもりだった。もちろん、きつい叱責があることは予想できたし、場合によっては厳しいペナルティも覚悟していた。
しかし、その心構えもできないうちにこうして彼と顔を合わせることになることはまったく想定していなかったし、本音を言えば今夜は疲れ過ぎていてそういう話をしたくなかった。
「送って行こう」
「結構です。タクシーを呼びますから」
咄嗟に口から飛び出した半ば八つ当たりのような口調に自分でも驚いた。つっけんどんな言葉を発した本人が一番戸惑うなんてありえないと言われそうだが本当にそうだったのだ。
「もう私にかかわらないで下さい」
動揺を隠しつつ、何とかその場を逃れようとした彼女は、妹が使っていた車いすをわざと彼を大きく避けながらターンさせた。
「柚季、いい加減にしろ」
珍しく声を荒げた神保は、柚季の前に立ち塞がり彼女の手から車いすを奪い取ると、それを押して歩きだした。
「いいからそこで大人しく待っていろ」
有無を言わせぬ命令口調に反感を覚えながらも言い返す言葉が浮かんでこない自分に辟易しつつ、柚季は彼の姿が病院の夜間通用口に消えて行くのを見送った。
これから後、狭い車の中で二人きりでは逃げようがなく、今日だけでなく先日のことについても彼に何か言われるのではないかと考えただけでも憂鬱になってくる。
「それじゃ行こうか」
だが、病院から出てきた神保は、柚季と共に駐車場まで歩く道すがらも、車に乗ってからもそれらしいことは一言も告げず、ずっと無言のままだ。
車内に聞こえるのは彼女が神保に道を指示する声と、それに対する彼の確認の返事だけ。
「明日、事情をうかがいますから、オフィスの方に来てください」
先ほどまでの感情的な調子とは一変した、事務的で慇懃なまでに丁寧な口調でそう告げると、神保は彼女の家の前で車を止める。
「はい、分かりました」
シートに座ったままでうなずいた柚季は、何事もなく思っていたより早く自宅にたどり着くことができたことでそれまでの警戒を緩めた。彼から目を逸らしドアを開けようとハンドルを探す、そんな一瞬の隙を突くように、彼女は突然強い力で背後から引き戻された。
「え、あっ……」
自分の肩越しに顎を掴まれる。窮屈な体勢で唇をふさがれた柚季は息ができずに彼の腕の中でもがいた。
「ずっと私を避けていましたね」
やっと唇を離した神保は、息が上がった柚季の耳元でそう囁いた。
「そ、それは」
「もう充分に考える時間は与えたはずだ。そろそろちゃんと話をしなくてはいけないね」
話すって、何を?
柚季はそれに答えることなく車を降りると、彼を振り返ることなく門の中へと入る。そして動揺で震える手で家のドアの鍵を開け、そのまま玄関の内側に崩れるように座り込んだ。

何も話すことなんてない。少なくとも私の方には。

翌日、彼のオフィスに呼ばれた時には宴会係のチーフも同席していたせいか、話は終始仕事に関することだけだった。
だが、それですべてが解決したわけではないことは、その後の神保の態度からも明らかだ。
果たしてこのまま彼との距離を保っていけるのか。彼女はそれからずっと悩んでいた。
できれば現状を壊したくはない。しかし、一度だけとはいえ関係を持ってしまった相手と始終職場で顔を合わせることは、柚季の平穏な生活を脅かし始めていた。




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