その後、他のスタッフたちと共に結婚式場のオープン準備に追われた柚季は、慌ただしい日々の中で意図的に神保に対する動揺を心の片隅に追いやった。 もちろん、職場で彼と顔を合わせた時などには、彼が皆の前であの時のことについて何か仄めかすのではないかとドキドキしてしまい、まったくの平常心でいられたわけではない。それもあって、彼女は意識してひとりになることを避け、いつも同僚たちと連れだっているようにした。 だが、そんな柚季の心配をよそに、神保はそのような気配はおくびにも出さず、彼女に対しても他の部下たちと何だ変わらない扱いで通した。それもあって、彼女は少々気まずいながらも平穏な職場生活を送ることができていたのだ。 しかしながら、柚季はこの状況にほっとする反面、何か説明のつかないもやもやとした気持ちに苛まれる自分に戸惑っていた。 一夜限りの大人の関係。 あれは自分にとっても一種のアバンチュールだったのだと言い聞かせ、納得させようとしても、彼女の中にはなんとなく割り切れないものが残る。 軽く一晩遊んで後腐れなく別れることができる便利な存在。 自分が神保からそんな風に思われているということが妙に腹立たしく、また情けなく感じられてしまうのだ。 まぁ、昔は自分がそんなことにかかずらう人生を送ることになるとは思っていなかったけれど。 外見が地味で性格もどちらかといえば控えめなのが災いして、学生時代の彼女は男性にとんと縁がなかった。小学校から大学まで一貫性の女子校に通っていて出会いの機会がなかったせいもあるが、それでも恋愛に積極的な友人たちは学外に恋人がいたから、強ちそのことだけが原因とは言えないだろう。 授業が終わると大学の前までお迎えが来て、嬉しそうにデートに出かけて行く友人を笑顔で見送りながら、心の中でわが身の不甲斐なさを嘆いた。そしてその度に、いつか自分にも素敵な恋人が現れるという淡い期待に胸を膨らませた。今はまだ顔も分からない彼はきっと自分だけを見てくれる、そんな男性に違いないと、勝手に理想を抱いて。 そんな柚季の前に突然現れたのが、元の夫である前田哲哉だった。 友人たちと違って、出会いは偶然も駆け引きも何ない、親からのお仕着せの見合いだったけれど、それでも柚季は彼を一目見た瞬間に恋に落ちた。 ひとめぼれとかビビっときたとか、いろいろな言い方を聞いてきたが、彼女が感じたときめきはまさにそんな感じだったと今でも記憶している。 それが恋に恋していた証拠だなんて、あの頃には分からなかったのよね。 柚季は、今はもう跡形もなくなった、エンゲージリングが、そしてマリッジリングが煌めいていた左手の薬指を無意識に擦った。 見合いから挙式までの約1年。 彼女にとっては毎日がバラ色の日々だった。 かつて羨望の眼差しで友人たちを見送ったのと同じ場所で、今度は自分が皆に見られることに対する優越感。それも哲哉のエスコートは社会人として洗練されていて、当たり前のことながら学生同士でお付き合いしている友人の彼氏たちとは明らかに違っていた。 これが私の婚約者よ。 言葉にこそしなかったものの、あの頃の柚季は突如として自分に舞い込んだ幸運に舞い上がり、有頂天になっていた。 周囲からは永久就職一番乗りと羨まれる一方、本当にこのまま先方の言いなりに家庭に入ってしまってよいのか、と危惧する声も聞かれたが、そんな諫言は柚季の耳を素通りし、気に留めることさえしなかった。 だから彼女は気付けなかったのだ。 彼の欺瞞に満ちた、見せかけの優しさの下に潜んでいた、心の葛藤に。 哲哉は初めての恋人で婚約者、そしてその後、夫となったのだが、彼と過ごした数年の間で柚季の恋愛は燃え尽きた。それもふたを開けてみれば、この恋は彼女の一方的な好意によるもので、彼の方には最初からそんな気は微塵もなかったのだということも分かった。 離婚手続きの過程でそれが詳らかになっていくに従い、嫌というほど現実を思い知らされ、柚季の心は打ちのめされた。 所詮自分のような平々凡々とした女に、おとぎ話のような恋ができるはずがなかったのだ。 そう悟った柚季は夢物語を追いかけることを諦めた。 得られなかった彼の愛情を求めて枯渇した、女としての気持ちを心の奥底に封じたままで。 離婚して実家に戻った柚季には、その後もたびたび再婚話を持ち込まれることがあったが、彼女それらをのらりくらりと交わし続けた。 両親、特に母親は、最初は暗に再婚を勧めるような素振りがあったが、頑として話に乗ろうとしない彼女に、今ではすっかり諦め顔だ。 それはそうだろう、彼女はもう10年前の初心な女性ではない。 だから相手の態度から、彼女の「女」としての魅力ではなく何に引き寄せられているのかが透けて見えてしまうのだ。 それは桐島の名前ということもあるし、彼女自身が保有する財産だったりもする。 柚季は離婚に際し、慰謝料の名目でかなり多額な財産の分与を受けた。 今は賃貸している、かつて哲哉と暮らしていた前田家名義の高級マンションもそうだし、預貯金や貴金属なども多数あった。 離婚劇の一部始終を知っていた前田の両親は、息子の不義を恥じ、柚季にはかなり同情的だったし、後には両家の確執で本人がすっかり蚊帳の外に置かれることになったことに対する贖罪の意味もあってか、事情を理解し身を引く形で家を出て行く彼女に過分なほどのものを持たせてくれた。 だから柚季は離婚後に収入が途絶えたにもかかわらず、今まで実家の干渉なしで隠遁生活を送ることが可能だったのだが、却ってそれが世間の注目を浴び、「離婚でひと財産作った女」という不名誉なレッテルを貼られることになった。 その後、何度か妹の梨果には気分転換を兼ねて何度も働くよう強く勧められた。外の空気を吸うことで気持ちに張りが出るし、家族以外の他人とのコミュニケーションも図れるからということだったが、柚季は頑として首を縦に振らなかった。 もう、自分のことは放っておいて欲しい。 他人の都合で自分の人生を弄ばれ、散々な目に遭った彼女は、とてもそんな気にはなれなかった。 この仕事だって、知人の強い後押しがなければ、絶対に引き受けることはなかっただろう。 確かに離婚は柚季を打たれ強くした。しかし同時に桐島との間のコネクションの手段や、金づるとしてしか見られない自分に対する失望をも彼女に植え付けてしまった。 だから「その手のものを必要としない」と思われる神保に対しても、警戒を緩めることができないのだ。 たとえ彼と関係を持ったことで、凍りついていた女として心が一瞬揺らいだことに気付いていても、柚季の中にそれを認め、真正面から見つめるだけの勇気は湧いてこなかった。 HOME |