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Chapter U

   スリーピングビューティーの憂鬱  5


彼に言われるままにロッカーから私物を出してきた柚季は、そのまま押し込まれるようにして車の助手席に乗り込んだ。初めて見る彼の車は、青みがかったシルバーのセダンで、国産ハイブリットカーだ。すぐに隣に乗り込んできた神保がイグニッションキーを回すのを見た柚季は、意外に思った。
同年代で同じような立場にあった哲哉が、結婚当時から派手な外車を乗り回しているのを見ていたせいだ。今となっては当時まだ若かった元夫に、果たしてそれを管理維持できるだけの収入があったのかどうかは定かではないが、表面的には哲哉がこづかいを含め、金銭的に困っている様子を見たことはなかったから、実家が何だかの形で補てんをしていたのかもしれない。
それにひきかえ、今の神保はすでに三十代も半ば過ぎ、地位も役職もつき収入はそれなりにあるはずだ。そんな彼が街でよく見かけるような大衆車に乗っていることが不思議に思えたのだ。
「これ、神保さんの車ですか?」
「そうだが。何か?」
「……いえ、別に」
否定はしたものの声の調子に疑問が現れていたのか、神保はハンドルを握りながら片頬を上げて低く笑った。
「この車は本当に静かだからな」
「そ、そうですね」
確かに先ほどから、ほとんどエンジンの音も感じない。信号待ちを抜けた時や左右に曲がる際にウインカーの音と共に軽い音がかすかに聞こえるだけだ。だが、それは柚季の疑問の答えにはなっていない。
「もう乗り替えて4、5年になる。勤務時間帯を考えて、あえてこれにしたんだ。真夜中や早朝にしょっちゅう爆音を響かせて駐車場を出入りするのは、仕事柄とはいえ気が退けるからね」
ああ、そういうことなのか。
それを聞いた柚季はやっと彼の言葉の意味を理解した。神保は車を選ぶ際に、見栄えではなく、その使用感と状況を優先した。その結果がこれだと言いたいのだ。
こういうものの考え方は、神保のマネジメントの方針にもよく表れていると思う。彼が現場でも重用されるのは、創業者一族の出身であるというだけでなく、本人がその資質を持ち合わせているせいだ。強権的と恐れられようが、独断と謗られようが、彼は堂々と自分の考えを述べ、皆をそれに従わせるカリスマ性を持っている。幼い頃からワンマン経営で大会社を統べる父親を見てきた柚季には、それがひしひしと感じられた。
そんなことを考えているうちに、車は都内にあるマンションの地下駐車場に滑り込んだ。
「降りて」
助手席のドアを開けられ、渋々車から降りると、柚季はあたりをぐるりと見回した。
目の前のスペースには、1000ccクラスのエコカー。隣りに止まっているのは少し厳つい感じのするRV車だが、その向こうはファミリー向けのワンボックス。どちらも良く見かける国産車だ。
以前柚季が住んでいたマンションの駐車場にはずらりと外車が並んでいたものだが、ここはそんなに気が張るような住まいではなさそうだ。
手を引かれ、エレベーターに乗り込むと、彼は慣れた様子で11階のボタンを押す。
途中どこの階にも止まることなく目的の場所に着いた二人は、そこから下りると廊下を進み角部屋の一つ手前のドアのところまでたどり着いた。
「どうぞ」
扉を開けられ、先に中へと通された彼女は、靴を脱いで玄関を上がる。その時になって初めて柚季は、自分がまだ通常は持ち出し不可のホテルの制服を身に着けていることに気が付いた。
慌てて振り返った彼女は、すぐ後ろにいた神保との距離の近さに一瞬言いかけた言葉を飲み込む。
「あ、あの」
だが失態を詫びる暇もなく、柚季はそのまま彼の腕の中に抱きすくめられた。
「あの、私……あっ」
「もういいから黙って」
指先で軽く唇を塞がれた彼女が上目づかいに神保を見上げると、そこにあるのは、いつもと変わらぬクールな表情。ただ一点、違っていたのは、自分を見つめる彼の視線の熱っぽさだった。
この人でも、こんな目をすることがあるのね。
重なる唇に呼吸を奪われ、ぼんやりと薄れていく意識の中で最後に彼女が考えたのは、そんなことだったように覚えている。


明け方になり目を覚ました柚季は、ぼんやりとした頭で見覚えのない部屋の風景に困惑した。次に、ベッドの中にいるのが一人ではないことに気づき、ようやく昨夜、自分が何をしたのかを思い出したのだ。
彼女の背後で眠っているのは、神保だ。
離婚して以来、それどころか哲哉と別居するかなり前から男性とベッドを共にしていなかった自分が、よりによって職場の上司であり、元夫の知人でもある彼と肌を合わせたなんて、浅はかにもほどがある。
柚季は彼に悟られないようこっそりとベッドを抜け出そうと試みたが、すぐに彼の腕の中に引き戻された。
「どうした?」
「わ、私……」
三十も過ぎた、それも数年とはいえ夫を持つ身であった女が、こんな時どんな顔をすればよいのか分からないというのが情けない。
同じ年頃でも、もっと世慣れた女なら妖艶に微笑みながら「昨夜は素敵だったわ」とか、臆面もなく言い放つこともできるのかもしれないが、自分は男性のことは元夫である哲哉しか知らないのだから仕方がない。第一彼にだってこんな風に求められたことがないのだから、戸惑うのも当然のことだろう。
ただ本音を言えば、はるか昔、結婚していた頃に夫としたセックスよりは昨夜の彼との行為の方が数段良かったように感じられたのは確かだけれど。

「前田のことは配慮が足りなかった」
その言葉を聞いた柚季が更に身を強張らせたのを見た神保は、彼女の体を回して自分の方に向けると両手でその顔を挟んで覗き込んだ。
「まさか、今日君がホテルに来ているとは思わなかったんだ」
神保と柚季の元夫である前田哲哉は中学高校と同窓で、とりたてて親しくはないが既知の間柄ではあった。
それを聞かされたのは面接を受けにいった時のことだ。彼女の記憶になかったが、当時披露宴にも出席していたと聞き、もう二度と開けることはないとダンボールに押し込んだまま放置してあった、結婚式の時のアルバムを引っ張り出してみたほど驚いたものだった。
この話は断った方がよいのだろうか。
一時はそう考えて決断を迷った彼女だが、最終的にはこの仕事を受けることに決めた。
相談した妹の梨果に、「この先ずっと前田の名を聞かずに生活していくことなんて、不可能なんじゃない?」と言われたこともあるし、神保が余計なことは詮索しないタイプの人間であることが何となく分かったからだ。

彼の説明によると、昨夜、哲哉がホテルを訪れることは、前もって知らされていたらしい。レストランの方で妻子とも顔を合わせ、オフィスに帰ってみたら、ドアの前に今にも倒れそうな顔色の柚季が立っていたというわけだ。
彼の話が途切れたのを見計らって、柚季は気になっていたことを口にしてみた。
「あの、私があそこで働いていることは……」
「もちろん、何も話していない。特にあいつに言う必要もないからね」
それを聞いた彼女はほっとした様子で肩の力を抜く。
神保がそんな彼女を見て複雑な表情を浮かべたのを柚季が知ることはなかった。




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