あれは昨年のクリスマス直前の週末だった。 その日、柚季はいつもより少し早目に出勤し、シーズンイベントで賑わうホテルの裏方の仕事を手伝っていた。 オルガン奏者として雇用契約をしている彼女は基本的に演奏がない日は職場に出て来ないが、クリスマス・ランチやデイナーの予約が多く、書き入れ時の今はブライダル部門からの応援要員として駆り出されている。 こうしたことに全く経験がない柚季は、初めて入ったパントリーでとにかく指示されるままに配膳し、下がって来た食器やカトラリーを運び出すといった作業に追われていた。 「桐島さん、お疲れ様。お昼の部は終了、あとは下げるだけだから、休憩に入って下さい」 そう言われて時計を見ると、すでに時刻は2時を回っている。朝の9時から都合5時間、肩は凝り、立ちっぱなしだった足はもうパンパンにはっている。 「行こう、桐島さん。お昼は社食でいいわよね」 周囲に「お疲れ様」と一言掛けた同僚に腕を引かれた柚季は、この労働から解放してくれた係の人に挨拶をすると社員用の通路に向かい廊下を歩く。 そのまま階段を下り、半地下になった場所に解放されたスペースがあり、そこがこのホテルの従業員用の食堂になっているのだ。 シフト制で休憩時間がばらばらなせいか、満席になることもないがまったく空という時間帯もないのはホテルという職場柄か。 午後2時を過ぎても席にはそこそこ休憩中の従業員がいて、あたりはざわついていた。 「桐島さんは今日はここまでだったっけ?」 一緒に応援に来ている同僚に聞かれ、柚季は頷いた。 「ええ。午後からは、音響の調整に来てもらう予定が入っているの」 まだオープンしていないチャペルには、このあたりでは珍しく音響の良い本格的なパイプオルガンが設置されている。柚季がそれを弾くのだが、実際に演奏してみると音が響き過ぎて会話が聞き取れないことが分かった。そのため、急遽調整を加えることとなったのだ。 「そっか、いいなぁ。地獄から解放されて」 「夜の部って、そんなにすごいんですか?」 彼女のげんなりした表情と口調に、日替わり定食をつついていた箸が止まる。 「今日は特に。週末でクリスマス前で、その上どこかの会社のパーティーまで入っているみたいだから、レストランや厨房、パントリーは戦場よ、多分」 「そうなんですか……すみません、何か一人勝手しちゃって」 気まずそうな彼女の様子を見た同僚が慌ててそれを打ち消す。 「そんなことないって。大体桐島さんはオルガンの専属で雇用されたんだから、本来なら宴会のサポートなんてしなくていいのよ」 「でも、それだと周りの動きについていけないですから」 パートタイム扱いの彼女は、ホテル生え抜きや他社から引き抜かれた人員が多くを占めるブライダル部門の中ではどうしても浮いてしまう。今回の応援は、それが嫌で少しでも周囲の動きに馴染もうとする柚季が自ら買って出たことだった。 「抜くところは抜いて、上手にやらないと。あんまり気負うと続かないわよ」 諭すように言われて、柚季は曖昧に微笑んだ。 それが分からないから困るのだ。 実社会で働いた経験が皆無の彼女は、そういった風に上手く立ち回ることができない。というよりも、どう立ち回ればよいのか、それ自体が分からなかった。同僚に接するのも同じだ。 これまで学校や家族や友人といった、小さな社会の中で生きてきた彼女は、外の世界に触れたことがない。普通のOLをしている妹の梨果を見ていて、働くということはそれなりに嫌なことや辛いこと、大変なこともたくさんあると理解はしているが、それを実感として受け止めたことがない以上、悲しいかなシミュレーションすることさえできなかった。 音響のチェックは午後一杯かかり、技師と調整作業のスケジュールを詰め終わった時には夕方6時を過ぎていた。 すっかり日が落ちて暗くなったチャペルを施錠した柚季は、客人を送り出したついでに鍵の返却と報告のために、ホテルの館内にある、神保のオフィスへと向かった。 いつもなら裏にある従業員用の通路を使うのだが、今日は正面玄関脇から入り、混雑したロビーを抜ける。とその時、彼女の視線は、車寄せで降車した家族連れのところで止まった。 男女ともにスーツ姿で、その男性の方がまだ幼児と思われる子供を抱き、ドアマンが明けた扉から中に入って来る。 夜の明かりの中、ガラス越しだとぼやけて見えていた輪郭がより一層はっきりとした。 「う……そ。哲哉さん?」 柚季は咄嗟にロビーの柱の陰に身を潜めた。午前中の応援時に着用したユニフォームのままの彼女は、ホテルの従業員にしか見えなかったのだろう、元夫とその家族は何も気付かないまま彼女の前を通り過ぎ、エレベーターの中へと消えて行った。 柚季はしばらく柱に背を預けたまま、その場から動けなかった。 父親の顔で傍らに微笑みかける元の夫。彼に寄り沿うように歩く、溌剌とした美しい妻。そして何より、自分が持ちえなかったかわいい子供。 そう、あれがずっと彼が求め続け、本心から望んでいた本当の家族の姿なのだ。 離婚が成立してからすでに三年が過ぎようかというのに、まだ過去を引きずり同じ場所でもがいている自分と、すでに新たな伴侶を得て、新しい人生を歩み始めている元夫。こうなることはわかっていたのに、現実に二人の差をまざまざと見せつけられた柚季は大きなショックを受けた。 「桐島さん?」 どこをどう歩いたのかも記憶にないほど動揺していた彼女だったが、気が付けば神保のオフィスの前に呆然と立ちすくんでいた。 向こうから廊下を歩いてきた彼が気付くまで、どれくらいこうしていたのかは分からない。真っ青で思い詰めた表情を見た神保は、無言でドアを開けて彼女に中に入るように促した。 扉の前で立ったまま、動こうとしない柚季の背を押した彼は、少し強引に部屋に引っ張り込むとぴたりとドアを閉めた。 「一体どうしたんですか」 「……見てしまったんです、過去の亡霊を」 消え入りそうな声でそう呟いた彼女を神保ははっとした顔で見た。 「もしかして、会ったのか?あいつに」 柚季は力なく首を振ると、小さく息を吐き出した。 「遠目に見ただけです。今の奥様と、お子さんと三人で。でももう、二度と会うことはないと思っていたのに」 振り絞るような声でそう囁いた柚季は、崩れるようにしてその場に座り込んだ。その拍子に、掌に痕が付くくらい強く握りしめていたチャペルの鍵が彼女の手から床の絨毯の上に滑り落ちる。 「会いたくなかった。こんな風に彼を見たくはなかった。なのにどうして……」 封印したはずの恨み言が彼女の中から溢れだす。それは目を背けたくなるくらいにどす黒く、誰にも知られたくないほど愚かしい心の葛藤だった。 「何で……どうして」 跪き、震えながら繰り言を呟き続ける柚季の手を引くと、神保は当たり前のようにその体を腕の中に収める。 「や、止めて下さい」 僅かに残っていたらしい彼女の理性が、この状況に対して戸惑いを露わにするが、彼の腕が緩むことはない。 「じ、神保さ……」 上から落ちてきた唇に口を塞がれ、すべての抵抗を封じられた柚季は観念したかのように彼の胸に突っ張っていた腕の力を抜く。 もう、どうにでもなればいいわ…… 初めての労働で疲労した体も突然の再会でショック状態に陥った心も彼女の手に余るものばかりだ。 最後には周りに流される悪い癖だと自覚しつつも、その時の柚季は一時の、目の前にある温もりに縋りついてしまう自分をどうすることもできなかった。 HOME |