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Chapter U

   スリーピングビューティーの憂鬱  3


神保の部屋を飛び出した柚季は、教会の前まで来るとため息をついた。
この建物はブライダル部門が発足するにあたり新たに建築されたもので、すぐ横には披露宴会場としても使えるガーデンテラスが併設されている。
グランドオープンを目前に最終チェックや清掃に余念がないスタッフたちを遠目にしながら教会のドアを開けた柚季は、オルガンの前に座り込んだ。
「やっぱりここが一番落ち着くわ」
彼女がそう言うと、大概の同僚たちは驚いた顔をする。
一発勝負でやり直しの利かない挙式の場は緊張を強いられる職場だ。どんなアクシデントにも迅速に対応できるよう常に神経をピリピリさせ続けていなければならないストレスは、彼らにとっては胃が痛くなるような時間なのだから、それを好意的に受け止める彼女の感覚が理解できないのだそうだ。
だが、柚季は、そんな緊張感が嫌いではない。むしろ弾き手である彼女を必要としているこの場所こそが、一番自分に相応しいと思っていた。

芸は身を助く、の諺はまんざら嘘ではない、と柚季は思う。
というのも、30歳を過ぎて初めて「働く」ということを考え始めた彼女に職を授けたのは、幼い頃から続けているピアノを始めとする音楽だった。
高校在学中に懇意になった教会演奏者に手ほどきを受けたこともある柚季は、ピアノ伴奏の技術だけでなくオルガンにも触れる機会があり、その経験が強みとなり今の職を得たようなものだ。そうなければ普通ならば手に職がない、それどころかまともに会社勤めをしたこともない三十路の女性が働き口を探すのは容易なことではないだろう。
それもあってできることなら辞めたくはないのだが、このままここに自分がいると、せっかく今まで培ってきた職場の連帯感や雰囲気まで損ねそうで恐かった。
もしももっと若い時に社会に出て働く機会を与えられていたならば、こんな時の身の振り方は職場で自然と身につけられたのかもしれない。しかし、大学を出てすぐに結婚をし、家庭という狭い世界に浸りきってしまった彼女にはそれを学ぶことはできなかった。
そしてこの年になり、お世辞にもフレッシャーとは言い難い年代になると、今さらそんなことを聞くことも憚られる。そういった世間の常識に疎く、また決して世渡りが上手いとは言えない彼女は自分がすることの一つ一つに自信がなく、いつも本当にこれで良いという確信が持てない。
これまで自分で判断を下すことをしてこなかった柚季が初めて自分で考え、決断したのが今回の就職だった。そのせいというわけではないが、この職場に対しての不満はない。だが返す返すも彼女が後悔するのは、妹夫婦のことだ。

昨年結婚したばかりの梨果とその夫である園田が、夫婦間に問題を抱えているらしいことが白日の下に晒されたことで、妹はあちらの親族、特に園田のご両親に対して気まずい思いをしているらしい。今はとりあえず一真の元に戻り、仕事も再開しているが依然として今後についての話し合いは平行線のままで、膠着状態が続いているという。
柚季は椅子に腰かけたまま項垂れた。
もしも自分が式や披露宴のことを持ちかけなければ、梨果の身にこの厄災が降りかかることもなかったのではないか。
そう思う今も自分がここにいることが、妹夫婦に申し訳ない気がしてならない。
良かれと思ってしたことが裏目に出るたちは昔から、何するにもタイミングが悪いのは今に始まったことではないが、今回ほど重大で、かつショッキングな結果を見たのは初めてのことだった。
妹に話すと柚季のせいではないと否定してくれるが、それで自責の思いが軽くなるわけではない。
無意識に厄介事を呼び込む性質の自分が、家族はもとより他人の喜びの日のお手伝いをするなんて烏滸がましいにもほどがあるというものだ。

それに、彼女にはもう一つ、ここを去りたい訳がある。
それはこのホテルの副支配人である神保の存在だ。
創業者一族出身の彼は、スタッフからの人望も厚い。有能なだけではなく、彼はその存在自体がステイタスになっているといっても過言ではない。
だが、柚季はそういう男性が苦手だ。同じようなタイプだった、別れた夫のことで懲りたのもあるが、一緒にいるとどうあがいても自分は添え物で、周囲に良いように振り回される存在であるという劣等感が拭い去れないからだ。
多分周囲は彼女がそんなふうに感じているとは考えていないだろう。
むしろ、誰かの庇護を受けて、安穏と過ごすことを好んでいると思っているのかもしれない。
確かに以前の柚季はそうだった。
言われるままに学校に通い、周囲に勧められて見合い、そのまま結婚した彼女は、何も考えずに誰かの意見に従うことに慣れきっていた。その方が気分的に楽だし、なにより無用なトラブルに巻き込まれる可能性もなかったからだ。
だが、離婚という痛手を受け、その後に有無を言わさず自らの生き方を省みる機会を与えられた時、やっと今まで受け身一辺倒だった自分に足りないものが見えてきたように思えた。
自分の意志を持つということは、彼女にとってはそれなりに大変で、勇気が必要なことではあったが、自分を守るにはそれをすることが一番必要なことに思えたのだ。
だから神保のように自己主張が強く、人を惹きつけてやまないタイプの男性に近づくことが怖かった。それなのに、彼女は性懲りもなく、またしてもそんな男にふらふらとよろめいてしまったのだ。

あんなこと、できることなら、すべてなかったことにしてしまいたい。

柚季はため息とともに、その場でがっくりと肩を落とす。
彼女が思い出すのもはばかられる「あんなこと」になったは、昨年の年末、あることが切欠だった。それはもう過去のことと思っていた元夫との偶然の再開から始まったことだった。




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