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Chapter U

   スリーピングビューティーの憂鬱  21


柚季が必死の思いで神保に告白してからしばらく経つ。
しかし劇的に変わるかと思っていた彼女の生活はそれまでと同じように穏やかに過ぎていった。
自ら作り上げた壁を壊し、そこから飛び出すことを何より恐れていた彼女だったが、いざ外に出てみると、そこにあったのは以前と同じ平穏な毎日だ。
今までのように予定がない時には静かに自宅で過ごし、仕事が入っている時にはチャペルに赴いて新たに夫婦となる、またはその誓いを新たにするカップルたちの門出に心からの祝福を込めてオルガンを奏でる。それは彼女が重ねてきたこの数ヶ月の時間と何だ変わりがないものだ。
ただ一つ、以前と違うことがあるとしたら、それは彼女自身が解放されて自由になり、文字通り身も心も軽さを感じられるようになったことくらいだろうか。

一方で神保とのことが公になってからというもの、柚季を取り巻く空気は少しずつ変化しつつあった。
仕事先ではどういうわけかそれまでまったく動かなかった後任のオルガニストの人選がすぐに始まり、柚季の契約はこの先3ヶ月の後は白紙の状態で事実上の継続なしということで落ち着いている。
このように周囲からは退職後に神保と結婚するものと思われている節があるが、実際のところ今の段階では二人の間ではそのような話はまったく出ていない。ただ、桐島家では特に母親がこの流れに乗り気で、彼女に知られないようにこっそりと準備を始めていると聞いた柚季はその手際の良さに笑うしかなかった。

「まだそうと決まったわけではないのに」
柚季はいつものようにチャペルのスタッフルームの小さな窓から外を眺めながらそう呟いた。
彼女は拙いなりにも自分の気持ちを神保に伝えた。しかし彼からは何ら約束めいた言葉を貰っていない。
彼女を包み込む腕が、優しく降り注ぐ口づけが彼も同じような想いを抱いていることを告げてはいるが、だからといってそれを事実と決定づける確たる証は何一つないのだ。

私って欲張りなのかな。

たった一言でいい。
好きだと言ってくれたら、それだけで彼女の心は満たされるのに。
柚季は「はぁ」と切なげなため息を零した。
勝手なもので、あれほど自分が口にすることを躊躇った言葉を、彼から今すぐにでも聞きたいと思ってしまう。彼の口から彼の言葉で彼女をどう思っているのか教えて欲しい。
梨果に言わせれば、男の口約束なんていい加減なもので、そんなものは何の証にもならないと笑い飛ばされるかもしれないけれど。

柚季を不安にさせる要素はまだほかにもたくさんある。
その最たるものが、二人のかみ合わない時間だ。
新たな役職に就いた神保は今、とにかく多忙だ。休みも不定期で、たとえそれが決まっていたとしても一度何か事が起こると予定の有無にかかわらず引っ張り出されてしまうことも度々だ。対する柚季は多少の自由がきく身だが、今はまだ仕事をしているせいで土曜日曜、祝日といった結婚式に日柄の良い休みはほとんど出勤している。そうなれば二人でゆっくりと向かい合うようなゆとりはなく、互いの空いた細切れの時間に急かされながら会って体を重ねることが精々だった。
もういっその事一緒に住んでしまえば?
そう言いだしたのは末の妹の杏だったが、昔ながらの道徳観に縛られて育った柚季には、それだけはどうしてもできそうにない。
あと少しすれば自分の契約が切れ、もっと彼の予定に合せることができるようになる。そう分かってはいても、このすれ違いが寂しくて仕方がない自分の堪え性のなさが情けなくなってくるのだ。


そんな中、柚季は突然神保に呼び出され、都内のあるレストランに来ていた。
平日の、しかもまだ夕方早い時間。今日はちょうど仕事が休みだった彼女は家にいる時にその連絡を受けた。
電話を切って時計を見ると、いつもなら神保はまだ仕事をしている真っ最中といった時刻だ。彼女は一瞬首を傾げた。
何か会議でもキャンセルになったんだろうか。
しかしそれならすぐに調整され、他の仕事でスケジュールが埋められるはずだ。少なくとも今まではそうだった。
訝しみながらも支度をした彼女は、指定された場所へと急いだ。

「お待たせしました」
名前を言うと通されたのはレストランの奥にある個室だ。柚季が到着した時には、神保はすでに席についていた。
「急で悪かったね」
ここまで案内してきたウエーターが下がると、彼は柚季のために椅子を引き、座った彼女に軽い口づけを落とした。
「それで、今日はどうしたんですか?」
向かいの席に落ち着いた神保を見ながら、柚季は勧められた食前酒に口を付ける。
「やっとケリがついた、すべてのことにね」
彼はそう言うと片手で乱れた前髪をかき上げた。
「でもお仕事は相変わらず忙しいんでしょう?」
柚季はそんな彼の方を遠慮がちに見ながらグラスを揺らす。
こんな時、彼は極力お酒に口を付けない。この後にもまだ仕事に戻ることも再々だからだ。
「ああ。だが少なくとも懸案事項はクリアーした。これからはもう少し自由な時間が取れるようになるはずだ」
「懸案事項?」
神保は頷くと、これまで触れてこなかった経緯を教えてくれた。
彼は創業者一族の出ではあるが、本家筋ではない。そのことで今回就いた役職は立場的には微妙なポジションだった。
それだけでも煩い外野を抑えるのに大変だったのに、彼にはもう一つ厄介な話が持ちかけられていたというのだ。
それが桐島グループからの誘いだった。
「えっ、父がそんなことを?」
その話を初めて聞かされた柚季は驚いた。桐島は妹の杏の婚約者である井川を名実ともに次のトップに据えることが決定しているはずだ。それなのに、今や家のことに関しては完全に蚊帳の外である柚季の相手にまで触手を伸ばしてくるなんて考えもしなかったからだ。
「正確には君の父上の意向を受けた井川氏からの打診だ。外様の彼も盤石にするにはもう少し足元を固める必要に迫られているということだろうね」
大グループを動かす中枢、重役という餌をぶら下げてのヘッドハント。打診した側の桐島は上手くいけばもうけものという程度のことだったのかもしれないが、された側の神保は難しい立場に立たされた。
「心がまったく揺れなかったとは言わない。だが私は元々あまり企業経営自体に興味がないからね。だが、だからといって君の実家である桐島を完全に向こうに回すのも都合が悪い」
両方に角が立たないように、上手く話を断るのは結構大変なことだった、と神保は疲れた顔で笑う。そんな彼を柚季は申し訳ない思いで見つめた。
「ごめんなさい、私が絡んだせいで厄介なことに巻き込んでしまって」
そう言って俯いてしまった柚季の手を取ると、彼はそれを強く握った。
「それ自体はそんなに大きな問題じゃない。それにこんな風にすべてをクリアーしたことでやっと君とも将来を見据えた話ができるようになったからね」
神保は一旦手を離すと、懐から取り出した小さな箱を彼女の手に乗せた。
「開けてみて」
少し平べったい包みを解いた柚季はそのケースの中にあるものを見て困惑の表情を浮かべる。というのもそこにあったのは、一粒のダイヤのルースだったからだ。
「これは?」
「見ての通り、それはまだ完成していない。それで作った指輪はいつもつけていて欲しいから、鍵盤を弾く君の指に邪魔にならないデザインを一緒に考えようと思ってね」
蓋を開き、大粒のダイヤを柚季の手のひらに転がした神保は、その石ごと彼女の手を握りしめる。そしてまだ状況が呑み込めない彼女の方に身を乗り出すと、しっかりと視線を合わせてはっきりと言った。
「柚季、君を愛している。私と結婚してくれないか」……と。
驚きに動きを止めた彼女は、彼の視線を外せないまま大きく目を見開く。そして次の瞬間、こくりと首を振った彼女の目から大粒の滴が零れた。
それは、目の前にある一粒のダイヤと同じように、美しい輝きを放ちながら柚季の頬を流れ落ちたのだった。




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