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Chapter U

   スリーピングビューティーの憂鬱  20


「私ったら、一体何やってんだか……」
ガラスの向こうに目をやりながら、柚季は何度となく繰り返した言葉を口にする。
マンションについたのは午後9時前。エントランスでインターホンを押そうとしてふと気がついた。
こんな時間に神保さんが帰っているはずがない。
その嫌な勘は見事に当たり、案の定部屋にコールしてもあちらからは何の反応も返ってはこなかった。
彼の携帯番号は知っている。しかし、相手の都合も聞かずに勝手に押しかけて来た手前、家の前にいるから早く戻って来てくださいとは言いにくい。否、はっきりいってそんなこと、彼女には間違っても言えなかった。
今の彼の生活パターンはよく分からないけれど、10時頃には帰宅するのかしら。
そんな根拠のない期待を持って、待ち続けること1時間あまり。
いい加減、ロビーにあるソファーに居座り続けるのも居心地の悪さを感じるようになってくる。巡回してきた警備員には彼の名前と家に入れなくて待っていることを告げておいたが、それでも女が一人ここにじっと座り続けていれば出入りする住人には嫌でも目に留まるというものだろう。
ドアが開き、人が入って来る気配を感じる度にそちらに視線を走らせていた彼女は、持っていたバッグごと、両手で強く自分の胸を抱きしめた。

今夜はもう諦めて帰った方がいいのかな……
しかし、ただでさえなけなしの勇気を振り絞って来たのだ。ここで帰ればもう二度と彼のマンションに押しかけてくるような無謀なことはできないように思えて、どうしても出入り口に向かう足が踏み出せなかった。
あと10分。
10分だけ待ってみて、それでもだめだったら帰ろう。
何度目かのため息とともにそう自分に言い聞かせた柚季は、俯くと自分の足元に目を落とした。磨き上げられた大理石張りの床が控えめな照明に照らされ、鈍い光が彼女の仕事履きの靴に反射している。
そういえば、彼の靴っていつもピカピカに磨かれていたっけ。服装もまったく隙がなかったし。
彼女だって、最低限の身だしなみは整えているつもりだ。だが、女性としてはそんなにお洒落に気を使う方ではないし、美しく見せる装いよりも着心地が良い物の方を手に取ってしまうことが多かった。
神保が彼女の何を見て誘ってきたのか、柚季には未だによく分からない。それに考えてみれば彼が柚季をどう思っているのかをはっきりと告げられたこともなかった。
まぁ、私だって神保さんのことをとやかく言えた義理じゃないか。

前夫、哲哉の時は、自分を取り巻くものすべてが彼一色の世界になった。彼の好きなものは自分も好き、そう思い込んでできる限り哲哉の意にそうように努めた。今考えれば、あの頃の柚季は哲哉好みの女になろうとするあまり、傍から見れば滑稽なまでに自分を殺していたように思える。
だが、神保との間に芽生えた、今の関係はそれとはまったく違うものだ。彼は一切自分の嗜好を彼女に押し付けてこない。むしろ自分でそれを探り当ててみろと言わんばかりに彼女を突き放す。そのちょっと距離のある接し方が、ことあるごとに柚季を戸惑わせる。
互いの年齢を考えても敢えて依存する必要はないのだが、それでも柚季にとって彼の考え方を受け入れ、自らを前面に押し出すことはちょっとした冒険で、勇気が必要だった。


「柚季」
バッグを抱えたままでぼんやりと考え事をしていた彼女は、頭の上から聞こえてきた声にはっと我に返った。
「じ、神保さん?」
いつの間にか待ち人である彼が目の前に立っている。弾かれたように立ち上がった彼女の目に、今日も変わらず埃ひとつついていない彼の靴が見えた。
「来ているなんて知らなかった。プライベートな方も携帯番号も教えてあるだろう。どうして連絡をしてこなかった」
いつもの事務的な口調の中にも少し驚きを滲ませた言葉に、柚季は恐る恐る彼の顔を見上げた。
「だ、だって、まだお仕事中だったら、お邪魔したら悪いかなって」
それを聞いた神保は片手で額を擦ると何とも言いようのない表情を浮かべた。
「来ていることが分かっていたら、もう少し早くに切り上げた。こんな時間に外で君を待たせたりはしなかったよ。それで、いつからここに?」
柚季が手首を返して時計を見ると時刻は既に11時を過ぎている。都合2時間あまりここにいたことになる。
「まぁいい。それより今日は自分の車で出なくてよかったよ。もしそうだったら、このエントランスを通らず地下の駐車場からそのまま上に上がってしまうからね。そうしたら君がいることにさえ気づかなかったかもしれない」
「えっ?」
そんなことを考えもしなかった柚季は、彼の言葉に驚き目を丸くした。
それを見た神保は思わず苦笑いする。
「とにかく先ずは上にあがろう。話はそれからだ」

エントランスから彼の部屋まで、途中で止まることもなく、無言の二人を乗せたエレベーターは静かに上昇していく。
階が上がるごとに緊張が増す柚季だったが、どうしても彼に話しかけるタイミングが計れない。そのうちに目的の階に止まり、ドアを押さえた神保に促された彼女は先にエレベーターから降りた。
彼に思いの丈をぶつけてみようと意気込んで来たというのに、何でこうなっちゃうのかしら……
柚季は軽い自己嫌悪に陥りつつも、彼に鍵を開けてもらった玄関を入る。
ほら、何か言わなくっちゃ。でなければ何のために彼を待っていたのか分からない。
「神保さん、あの、私……」
話を切り出そうとした柚季の唇を、彼の指先が軽く抑えた。そして少し屈んで彼女に顔を寄せると、その耳元に囁く。
「中に入ってからでいいかな。でないと、話の内容によっては、またいつかみたいにここで君に襲い掛かってしまうかもしれない。何せ君の姿を見るのは久しぶりだからね」
それを聞いてその時のことを思い出した柚季は、慌てて靴を脱いで玄関を上がり、奥にあるリビングへと向かう。
それを見送る神保が首を振りながらふっと小さく笑いをもらす。不器用な彼女が見るからに気を張って頑張っている様子は何とも可愛い。だが、そんな彼女にわざと意地の悪いことを言ってみたくなるのは困った性癖だ、という自覚が彼にはあった。


ソファーに座りこちらを伺うように見ている柚季に、神保が飲み物を勧める。
「何か飲むかい?紅茶でいいかな、それともお酒の方がいい?」
「あ、で、でしたら、紅茶をお願いします」
仕事用のスーツ姿で上着を脱いだだけの神保がキッチンスペースへと入って行く。
それを見送った柚季には、彼が以前より少し痩せたように思えた。
やっぱり忙しいのかな。ちゃんとご飯とか食べているのかな。
目の前に出された熱い紅茶に手を伸ばしながら、柚季はそんなことを考える。その間に神保は着替えて来ると言い置いてリビングを出て行った。

前に来た時と全く変わらない、生活感のない部屋。
あの時にはこんな風にここに来て、お茶を頂くようなことになるとは夢にも思っていなかったのに、何だか不思議な感覚だ。
ラフな服装に着替えて戻って来た彼もまた、手には湯気の立つコーヒーが入ったカップを持っている。
それを見た柚季は思わず首を傾げた。
「神保さんは?飲まなくていいんですか、お酒?」
その問いに答える前に、神保はカップから一口啜った。
「話の内容によっては、君を送って行かないといけないかもしれないからね」
そう言ってにやりと口元を歪める彼に、柚季は小さな声で、しかしはっきりとした口調でこう答えた。
「私、今夜は帰りません」
彼女が自らそんなことを言い出すとは思いもしなかったのか、珍しく神保が驚いた顔をする。それを上目づかいに見ながら、柚季はずっと心に抱いていた言葉を口にした。
「あなたと一緒に居たいと思ったんです、これからもずっと。だから、だから、私……」
言葉に詰まり、それ以上は何を言えばいいのか分からなくなった彼女を、すっと伸びてきた腕が抱き寄せる。戸惑いながらも柚季が彼の背中に手を回すと、顎を乗せた神保の肩からふっと力が抜けたのを感じた。
「あなたが好き」
消え入りそうな柚季の囁きに、神保の腕が一層強く彼女を引き寄せたのを感じながら、柚季はやっと思いを伝えられたことにささやかな安堵と喜びを感じていたのだった。




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