涼子と会ったことで柚季はやっと過去の自分と決別する覚悟ができた。 だが、彼女にとって予想外だったのは、そうすることで柵から解放されると同時に現在と未来の間のジレンマに悩まされるようになったのだ。 殻に閉じこもり、望みを持たないことが自分を守る唯一の手段と長い間信じて疑わなかった彼女は、同時に自らの心と向き合い、未来を考えることをも拒み続けてきた。そのせいで呪縛の解けた今もまだ、最初の一歩を踏み出すことに躊躇していた。 神保に会おう。会って自分の気持ちをぶつけてみよう。 一度はそう決心した柚季だが、彼に会った後にどんな展開が待っているのか予測がつかないことがその勢いを鈍らせる。 それは裏を返せば安定した今を根底から覆しかねない行為への恐怖であり、これまで自らの意思で行動したことなどほとんどない受け身な彼女に、この上ないプレッシャーを与えるものだったからだ。だがその反面、このままでは今まで同様に決して前に進むことはできないのだということも分かっていた。 決断を急かす自分とそれを怖がる自分。 せめぎ合う二つの気持ちのどちらを優先するのかを迷い、決めかねている自身の優柔不断さへの苛立ちがじわじわと彼女を苛んでいく。 今日こそは、彼に連絡を入れよう。そう思いながらも日々の忙しさに託けてその日をやり過ごし、今日は無理だから明日こそはきっと……と誤魔化しの理由で自分に言い訳しながら先送りを繰り返す。 これではいけないと分かっているのに、どうしても動き出すことができない自分の不甲斐なさに悶々とした日々を過ごしていた柚季に、妹の梨果から食事の誘いがあったのはつい昨日のことだった。 「姉さん、久しぶり」 待ち合わせの場所は彼女たちが行きつけにしている某ホテルのレストランだ。 大概使うのは平日の夕方ということもあってか、いつも店内は適度に空いていて、静かなクラッシックが控えめな音量で流されている。 個室を取るほどでもないと窓際の席に着いた二人は、料理が運ばれてくるまで互いの近況報告と世間話に花を咲かせた。 「園田さん、また海外へ?」 梨果の夫である園田一真は商社に勤務している。結婚前よりかなり頻度は下がったというが、今でも時々週単位での海外出張に出かけて行く。梨果が自分を食事に誘ってくるのはたいがいその時だ。 「そう。でも今回は彼も気分的には楽みたい。短期だし、毎日メールできるだけでも環境が良いって」 園田の話では、過去に紛争地域に近い場所に赴いてえらい目に遭ったことがあるらしい。通信事情が悪い時には数日間会社と連絡が取れなかったり、真夜中に近くの都市に落とされた砲弾の音にたたき起こされたりした経験もあるという。彼曰く、この年まで結婚に真剣に向き合わなかった理由の一つは、自分が家族を残して死んだ時のことを考えたことがあるからだそうだ。 「大変ねぇ」 海外には旅行で、それも観光地の有名な高級ホテルにしか泊まったことのない柚季には、真夏のうだるような暑さでも空調が効かず扇風機しかない部屋や、極寒の真冬にお湯が出ないシャワーがあるホテルなど想像もつかない。 「まぁね。でも自分で選んだ仕事だからって行くんだから、どうしようもないわよ」 そう言って笑う梨果を見て、紆余曲折はあったが今は何とか上手くいき始めている妹夫婦の様子に安堵する。 考えてみれば、彼女たちの結婚生活は柚季が経験したのとはまったく違うものだ。 傍から見ていて、両者とも最初から遠慮がなく、ズケズケと言いたいことをはっきりと言う。 だからこそ、主義主張の違いに正面から向かい合い、許せることと受け止められないことを互いに精査し認識しつつ、妥協点を見い出していけるのだろう。 対する自分と哲哉の結婚は、周囲や夫から与えられるだけだった。すべてが一方通行で、表面を滑るだけの見せかけの意思の疎通と愛情で、何一つ双方向には向かわなかった。それに気が付いたのは結婚生活が破綻したずっと後のことだ。 哲哉との間には最後まで築けなかった相互関係だが、神保とならどうだろうか。今なら自分にも、妹たちのように裏表のない関係が作れるのではないか。 梨果と取りとめもない話をしながら、柚季はぼんやりとそんなことを考えていた。 「ところで、姉さんの方は?何かあったんでしょう?」 突然話題を振られた柚季は面食らった顔で妹を見つめた。 「何かって……どうして?」 「そりゃ分かるわよ。だてに30年も妹をやっているわけじゃないんだから」 昔から梨果には隠し事ができなかったことを思い出した彼女は、心の中で苦笑いした。 元来誤魔化しが苦手で嘘が下手な柚季だが、特に梨果には自分が隠したいことまで探り出されてしまう。対する妹は子供の頃から完璧なまでに心の中をガードし、曝け出したくないことは頑として他人に見せない強かさを持っていて、彼女はいつも口惜しい思いをしていたのだ。 「先週ね、哲哉さんの今の奥さんが……涼子さんが訪ねて来たのよ」 「今の奥さんって、あの時の不倫相手だった女の人でしょう?何でまた今頃になって……」 柚季の話に最初は目を剥いた梨果だったが、その経緯と様子を聞いた彼女は遣る瀬無い表情でため息をついた。 「あの人もねぇ。もっと他にいくらでも楽な生き方があったでしょうに。よりによって何であんな男を選んだのか」 梨果の哲哉に対する評価は、以前からかなり手厳しいものがある。離婚した当時は「男として最低のクズ」と公言してはばからないほどだった。 「でも彼女に会って、私も目が覚めたのよ。今まで何でそれほどまでに過去に囚われていたのかが分からなくなったっていうのかしら。後ろ向きでうじうじした自分がほとほと嫌になったの」 そこまでの自覚はとうにできている。あとは何かきっかさえあれば、新しい世界に飛び立つことができそうなのに、情けないことに最後の最後で足が竦んで前に踏み出せない。 「だから私も自分の殻を破りたくて」 そのためにもう一押し、誰かに背中を押してもらいたい。 柚季は無意識に、梨果にその役回りを求めていたのかもしれない。 「そっか、ついに姉さんもその気になったってこと?ならば思ったように生きてみなさいよ。誰のものでもない、自分の人生なんだから。やらずに後悔なんて、もったいないじゃない?それで失敗したら、弱音でも愚痴でも何でも聞いてあげるから」 梨果はそう言うと何かを決意した姉の気持ちを推し量るように、にっこりと微笑んだ。 ホテルの前で梨果と別れた柚季は、そのままタクシーを拾った。 向かう先は神保のマンションだ。 この時間に彼が自宅にいるかなんて考えもしなかった。 ただ、神保に会いたくて。会って思いを伝えたくて。 彼女を乗せた車は夜の繁華街の喧騒を抜けて走り出す。その瞬間、柚季は自分が彼に何を伝えるべきかを確かに見いだせたような気がしたのだった。 HOME |