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Chapter U

   スリーピングビューティーの憂鬱  18


一人の男の二人の妻。
かつて哲哉の妻であった柚季と、現在の配偶者である涼子。
実は彼女たちがこうして顔を合わせたのは今回が初めてではない。
哲哉と結婚してしばらくした頃、二人はあるパーティーで偶然会っている。
その時に哲哉の学生時代の友人として彼女を紹介されたことを、柚季はおぼろげながらも覚えていた。
確かに涼子は哲哉の大学時代の一年後輩にあたり、その当時は世間でも名のある企業に勤務するOLだった。
柚季とはまったく違う人種の、いわゆる仕事のできる女といった雰囲気を持ち合わせた彼女は、手入れの行き届いた艶やかな髪をショートボブに切りそろえ、誰が見ても一目でわかるブランドスーツをファッショナブルに着こなすセンスと内面から勝ち気さがにじみ出るような雰囲気を持つ美しい女性だった。
その場では「綺麗な人だな」という印象しかなかったが、後に彼女こそが夫の学生時代の恋人で今現在も関係が続いている不倫相手であると知った時の柚季の衝撃は大きかった。

後に夫婦関係が完全に破綻し、哲哉が彼女の元に走ってから、柚季は夫は涼子の何に惹かれたのかを探し出そうと必死で考え続けた時期もあった。
洗練された美しさだろうか、それとも誰もが認める有能さだろうか、それとも……?
だが、その思考はいつも行き止まりに突き当たる。
というのも、どれ一つとして彼女には縁のないものばかりで、無意識にそれらをすべて持ち合わせた涼子に嫉妬してしまう醜い自分に耐えられなかったからだ。
真実を知らなければその苦しみから逃れられないことは彼女だって充分承知していた。けれど悲しいかな当時の柚季にはそれを直視する勇気も気概も持てなかった。
こうしてただひたすらに夫が戻って来ることを期待し、来る日も来る日も待ち続けることしかできない自分に一体どんな価値があるというのか。
まさに出口のない迷路に迷い込んでしまった彼女は、己の無力さを嫌というほど味わったのだ。

結果的に哲哉は二度と自分の元に帰っては来なかった。
当初は絶対に二人の離婚を容認しないという態度を見せていた前田の家や両親も、涼子の妊娠が判明すると同時に哲哉たちに対する態度を軟化させ、柚季は最後の縁でもあった縋るべきものをすべて失った。
結局周囲の都合に良いように振り回された彼女だが、それを責める気にはならなかった。
言葉は悪いが、これは最初から勝負が決まっていた出来レースのようなものだと薄々気が付いていたせいかもしれない。最後まで哲哉の心を掴むことができなかった柚季には、どう頑張っても勝機は見いだせなかった。
ただ、あの頃の柚季は脆くなっていた自らの心をいかにしてを守るかに汲々としていたせいで、当時の涼子が哲哉の妻であった自分にどんな感情を抱き、どう思っていたのかというところまでは考えなかった。そしてそのまま離婚が成立し、前田家と完全に縁が切れたことで、彼女の中では自ずと涼子の存在も遠いものになったのだ。
そして数年の時を経て、すっかり記憶の片隅に追いやってしまったあの時の女性が、当時と変わらない美しさで、更に落ち着きを増して目の前に現れたのだから、驚かない方がおかしいだろう。

「初めまして、ではありませんね。お久しぶりです。哲哉さんや前田のご両親もお変わりなく?」
「……ええ。今日は突然にすみません。私の知人から、偶然ここの結婚式場であなたを見かけたと聞いたものですから」
「そうでしたか」
今の彼女は多くの人の目に晒される仕事をしている身だ。どこかで既知の人物に見られていた可能性は充分にあるし、それは彼女自身も重々承知していることだった。
最初は突然のことに衝撃を受け、戸惑った柚季だったが、その後は思いのほか淡々と彼女の前に座っている自分に内心驚いていた。対する涼子は始終俯き加減で言葉少なく途切れがちだ。
このひとはこんな風に伏し目がちで話すような女性ではなかったと思っていたけど。
相手をさりげなく観察していた柚季は思いのほか自分が冷静な目で彼女を見ていることに気が付いた。
もっと感情的になり、どろどろとした恨みや辛みに支配されるのではないかと思っていたが、いざ涼子を目の前にすると不思議とそういった気持ちはまったく湧いてこない。
「それで、今日はどのような」
「あ、あの……」
何かを言おうとした涼子が俯き、急に口ごもる。
首を傾げ先を促す柚季の様子に、彼女が意を決したように顔を上げた。
「私、今でも後悔しているんです」
「後悔?」
「ええ。あの時……あなたと会ってもっとちゃんとお詫びすればよかったって」
それを聞いた柚季は、訝しそうな顔をした。
確かに離婚に向けての話し合いの最中は、涼子はもとより哲哉さえも弁護士の立ち会いなしでは柚季と正面から向かい合うことをしなかった。だがそれは世間一般的に見ても普通のことで、そんなに常識を逸脱した行為であるとは思えない。
だが、涼子はそんな柚季の言葉に横に小さく首を振った。
「もちろん、そんなことをしたところで私たちが犯した罪が消えたことになるとは思いません。ただ、主人も私も、あなたに許しの一つも乞わずに、こそこそと逃げ続けていました。その後ろめたさが今も消えないんです」
そう言った彼女は膝の上に置いた手のひらをぎゅっと握りしめた。過去の亡霊に縛られたままの彼女のその姿に、柚季は一瞬過去の自分を重ねてしまい、掛ける言葉を見つけられなかった。
この女性(ひと)も、こうしてずっと苦しんできたんだわ。
そう思うと柚季はやるせない思いに駆られた。
あの泥沼の離婚劇の後、哲哉は晴れて愛する女性と結婚することができたし、その上二人の間には可愛い子供まで授かった。だから柚季は今まで痛手を被ったのは自分だけだと勝手に思い込んでいたのだ。
しかしここにも一人、過去の呵責に苛まれ、そこから未だ抜け出せない人がいる。

もしもあの時直接同じようなことを言われても、猜疑心で一杯だった当時の自分にはその真意は伝わらなかったかもしれない。だが、時を経て苦しみながらも自らを省みるだけの思慮を身に着けた柚季は、今なら彼女の心に巣食った蟠りが分かるような気がした。
「もうすべて過去なんですよ」
「過去……ですか?」
「そう、どれだけ振り返って自分を責めても苦しいだけ。時間を戻すことは誰にもできないんです」
涼子に語りかけながら、柚季は嘘偽りなくそう思った。
「でも、あの時私が彼の元を離れれば……」
「でもそうしなかったし、できなかった。そうですよね。多分哲哉さんも迷っていたし悩んでいたと思います。でも彼はそれを私と分かち合ってはくれなかった」
もしもあの時、周囲の圧力に負けて哲哉が自分を選んでいたとしても、いずれ彼は柚季の元から離れて行っただろう。柚季にとっての彼は愛する夫だったが、哲哉に同等の感情があったとは思えない。そんな男女が上っ面だけ良い夫婦のように振舞ってもやがて破たんする時が来るのは想像に難くない。
「あの時こうしておけばという後悔は私にだってあります。でもあの出来事を経たからこそ、今の自分がある。私はそのことを否定しません」
柚季は内心、しっかりとした口調でそう言い切った自分に驚いていた。
昔の恋敵を目の前に、強がりでも諦めでもなく、心からそう言えたこと。それが何よりも彼女自身を勇気づけた。
「だからあなたも、もう過去にとらわれずに前を向いて歩いても良いと思うんです。あなた自身のために、そして哲哉さんやお子さんのためにも」


涼子をホテルから送り出したあと、柚季はぼんやりとスタッフルームの椅子に座り込んでいた。
「前を向いて歩け……か」
それは自らにも当てはまる言葉だ。
ずっと過去の呪縛から逃れられなかった柚季は、自分の未来に目を向けることを恐れていた。これから先、どんな自分になりたいと考えているのか。そしてどんな人生を歩みたいと望んでいるのか。それさえも考えることを拒んで生きてきたのだ。
だが今日、同じように過去を引きずりながら生きている涼子に会い、改めて自分の愚かさに気付かされた。
どんなに思い悩んでも過去は取り戻せない。
その時柚季はふと、以前神保に言われたことを思い出した。
『君は心の中で何を望んでいるのか』
でも、未来なら、そう未来だったら……望めば本当に変えられるのかもしれない。




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