神保がホテルを去ってからひと月あまりが過ぎた。 最初は彼の存在がないだけでどこか違和感があった日々の生活も、何事もなければ表向きはそれなりに過ぎていく。 後任のブライダル部門の責任者には新たに系列のホテルから迎えられた年配の役員が就いたが、当面は神保がいた時の方針をそのまま継続する意向であるために大きな変化は見られなかった。 平日はぽつぽつと入っているだけの挙式予定も、日柄の良い週末や祝祭日のチャペルウエディングプランは来春まで予約でほぼ埋まり、空きがない状況だ。活気がある職場で緊張を伴う充実感にひたりながら過ごすことに満足しつつも、柚季は気が付けば無意識に彼の姿を探している自分に辟易していた。 会えなければ、そのうち忘れてしまえるだろう。 そう考えていたのに、自分から彼のいた痕跡を探そうとするなんて、愚かだ。 分かっているのにどうにもならない気持ちがもどかしくて煩わしい。 神保のいたこの職場と縁が切れればこんな気持ちになることもないのに、未だ彼女の退職は棚上げになったままで、後任も決まっていなかった。 それとなくチーフに退職の時期についてお伺いをたててみたが「今のところは何も指示されていない」と返され剰え、「今桐島さんが辞めたら弾く人間がいないオルガンはただの置物になっちゃうんだよなぁ」とまで言われれば、無下に仕事を放り出すこともできないというものだろう。 いつまでこんな状況が続くのか。 先が見えない中で、何かにつけて思い出すのは彼の言葉だ。 『君が本当は……心の中では何を望んでいるのか』 私が本当に望むこと? もちろん、このまま何も変わることなく、平穏な毎日を送ること。 それ以外にはない。 ただ、その「変わらない」日常の中に少し前には絶対にありえなかったものが入り込み、事あるごとに彼女を迷わせる。 彼がここにいてくれたら。 そんな風に思うことに呆れつつも、いつまでたっても神保の影を引きずる自分をどうすることもできなかった。 長い眠りの中から無理矢理現実に引き戻された柚季の心は、壊れかけた防御壁を護ろうとするあまりに真実を見たがらず、否定と肯定の間を揺れ動く。そのぶれ幅が大きければ大きいほど彼女は自分の気持ちを段々と見失っていくような気がして恐ろしかった。 「桐島さん?ちょっといい?」 そんなある日、チャペルのスタッフ控室で楽譜を整理しながらぼんやりとしていた柚季は、同僚に呼ばれてはっと我に返った。 「はい、何でしょうか」 彼女に声を掛けたのはホテルのブライダルコーディネーターの女性だった。 「あなたにお客様なんだけど」 「私に?」 「ええ。挙式の相談にいらしゃったみたいなんだけど、その前にぜひあなたとお話がしたいって」 以前にもこういうことがあったが、その時の来客であった井川はすでに他のホテルでの披露宴を決めていて、その他にここに彼女を訪ねてくるような人に心当たりがない。 「名前はお伺いしている?」 「前田さんって言われたわ」 前田と聞いた柚季はどきりとした。 彼女の知る限り、旧知の前田は哲哉とその親族だけだ。 「男の人?」 声が震えないように気を付けながら聞いてみたが、返ってきた答えは意外なものだった。 「ううん、女の人。多分桐島さんとあんまり変わらないくらいの年の人じゃないかな。だから私てっきり学生時代のお友達か何かだと思ったのよ」 同世代の、自分を訪ねて来て前田と名乗った女性に柚季は思い当る人がいない。 「私で間違いなかった?」 「ええ。確かに『桐島柚季さん』って言われたわよ」 怪訝そうな顔をする柚季に、同僚が慌てた様子を見せる。 「あ、もし心当たりがなかったらお断りするわ。今も一応今日出てきているか確認するってこっちに来たから、理由は何とでもつけられるし」 「でもその方、私に、って来られたのよね。居留守なんて何か悪くない?それに怪しい感じはしなかったんでしょう?」 「それはそうだけど……」 同僚の女性は少し思案するように眉を顰めた。 「一度お会いしてみるわ。何かの勧誘とかだったらすぐにお帰り頂くから」 滅多にないが、職場にもそういった類の人が押しかけてくることがある。柚季もスタッフの一人として来客に名刺を渡している身である以上、見ず知らずの人間にどこかで名を知られても仕方がないと割り切っていた。 「そう?それじゃお願いしていいかしら?一応カウウンターからコンパートメントスペースの方に移っていただいているから、そちらをのぞいてみて」 「わかりました」 控室を戸締りしてホテルのブライダルサロンの方へと向かいながら、柚季はまだ頭の中で「前田」という名の心当たりを探していた。 元夫の哲哉には妹がいたが、柚季が離婚して家を出る時にはすでに結婚していて前田姓ではなかった。あとは若干名、従姉妹などもいたように記憶しているが、元々付き合いがほとんどなかった彼女たちが今さら柚季を訪ねてくるような理由が思いつかない。 「失礼します」 人のシルエットを確認してから、柚季はパーテーションの前で声を掛けてから中を覗いた。 俯き加減だった人影が彼女の声に弾かれたように顔を上げる。彼女の顔を見た柚季は呆然とその場に立ち竦んだ。 何でこの人がこんなところにいるの? 血の気が引いた柚季は、思わず側にあったパーテーションのポールを握りしめた。そうでもしなければこのままここで倒れてしまいそうだった。 「柚季さん」 目の前の女性も椅子から立ち上がるとじっと彼女を見つめた。 「あ、あなたは……」 そう、そこにいたのはあの時、柚季から夫を奪っていった張本人であり、現在の哲哉の妻の涼子だったのだ。 HOME |