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Chapter U

   スリーピングビューティーの憂鬱  14


「神保さん?」
背中から抱きしめられた柚季は、その腕の主を見ようと身を捩る。
「この部屋で私の他に君にこんなことをする人間がいたら、恐ろしいな」
一見涼やかな顔でさらりとそんなことを言いつつも、彼女を見る目だけは獲物を狙う獣のようだ。
それはいつ何時も冷静さを失わず、感情の見えない指先の動き一つで多くの人間を動かす神保の巧妙に隠された野獣の本性とでもいうべきか。
こういう時には、全てにおいて淡泊だった哲哉との結婚生活では感じたことのない独占欲のようなものが彼の内側から滲みだして来るように思える。
たとえ三十路を過ぎようとも、過去に結婚歴があろうと、男性との付き合いに疎い柚季にはそれが驚きであり、また戸惑いでもあった。
久々に感じた体温にときめきを感じつつも、柚季は咄嗟に神保の胸を押し退けて彼との間に隙間を作ろうとした。
「まっ、まだ勤務時間中です」
「知っている」
「そ、それに外に人がいっぱいいます」
「そうだな、そろそろ遅番が休憩に入る時間だ」
神保は壁に掛けられた時計をちらりと見て頷く。柚季が切れ切れに発する言葉に一言ずつ反応しながらも彼はなかなか拘束を緩めようとはしない。
「あ、あなたのオフィスでこんなことをしているのを誰かに見られたら……」
そう言って力を振り絞って彼の腕を振り払おうとする柚季に、神保は苦笑いしながらやっと彼女を解放した。
「何を今さらという感じもするが」
それを聞いた柚季はさっと顔を赤らめた。
このオフィスでは抱擁どころか、言葉にするのも恥ずかしいような痴態を演じたことを思い出したからだ。
それを見た神保は片側の唇を僅かにあげて、小さく笑う。
「それで、どうしたんだ」
問われても、柚季は素直に答えられなかった。まさか彼に会いたかったから、衝動的にここまで来てしまったなんて。そんなことは恥ずかしくてとても口に出せない。
「あ、あの…神保さん本社に移られるって話は……」
「ああ、本当だ。もうここまでその話が伝わってしまっているのか」
彼は苦々しげな表情を浮かべた。
「いえ、知っているのはまだ一部の人だけだと思います」
「だが知っている人間がいる以上、広まるのは時間の問題だな」
神保は少し苛立たしげに前髪をかき上げた。
「まったく、厄介なことに巻き込まれた」
心底嫌そうに呟く彼に、柚季は小首を傾げた。
「でも、いずれはこうなることが決まっていたのでしょう?それが少し早まっただけで」
「それはそうだが、ここにはまだやり残したことがたくさんあるからな」
「それで、ここにはいつまで?」
「まだはっきりとは決まっていないが、本社の方も覇権争いの後始末が上手くいかずバタバタしているようだから、あまり悠長なことは言っておれないな」
神保がここを去れば、必然的に自分との接点もなくなる。
どうやらこの不毛な関係にも潮時が来たようだ、と悟った柚季は彼に向かって深々と頭を下げた。
「あの、これからもお元気で。神保さんには、いろいろとお世話になりました。私も後任が決まり次第ここを辞めるつもりですが……」
こんなに呆気なく二人の関係が終焉を迎えることになるとは思っていなかったが、いつまでもこのままでいられるわけがなかったのだ。
彼には彼の、自分には自分の道がある。それは多分、この先も決して交わることのないそれぞれの未来だ。
「それはどういう意味かな?」
顔を上げた柚季が目にしたのは、いつもと変わらない神保の顔。だが、彼の全身からは思わずぞくりとするような、雰囲気が漂っている。
「ど、どういう意味と言われますと?」
柚季はなぜ彼がこんな風に静かに怒りを発しているのかを理解できず、ただ慄いた。
「君はこれで関係を清算して、すべて終わりとするつもりなのか」
それ以外にどんな手段があるというのか、この二人の曖昧な関係に。
「言っておくが、どこに居ようが君は私のものだ。私は君を手放すつもりなど毛頭ない」
それを聞いた柚季は唖然とした。
自分は彼の所有物になった覚えはない。だったら手放すも何も、最初から彼のものではない以上、こんな言い方をされる所以はないはずだ。
平素は滅多に怒ることがない柚季だが、この時ばかりはかっとして頭に血が上るのを感じた。
「いい加減にしてください。私は誰のものでもありません。私は私で、何があっても一人で生きていくつもりです」
「だが、この前このオフィスで君を抱いた時、私は何の予防措置も取らなかった。もしかしたら君はもう……」
「ご心配なく。もし、もしも仮にそんなことになっていたら……ちゃんと一人で産んで一人で育てます」
「何だって?」
「もう嫌なんです。誰かの都合で動かされるのは」
強い語調とは裏腹に、柚季は自分を嘲るような表情を湛えながら悲しそうに微笑む。父親の不興を買わないように、母親の機嫌を損なわないようにと、子供の頃から他人の顔色をうかがいながら生きてきた柚季は、それでも十分幸せだと、ずっと自分に言い聞かせてきた。そして親に勧められるままに習い事を嗜み、私学の女子校に進み、外の社会を見ることなく周囲にお膳立てをされて前夫と結婚した。
だが離婚という挫折を経て、彼女は自身の人生を自分で選び取ることの大切さを痛感させられたのだ。
それまで他人任せだった自分の生き方がいざという時に如何に脆いものか。それを嫌というほど味あわされた苦い経験を持つ彼女は、おいそれと簡単に他者に主導権を握らせることはできなかった。
「それに、そんな心配はまずないと思うけれど……本当にそうだったら、それこそ願ったり叶ったりだわ」




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