「だから、副支配人の神保さん、ついに経営サイドの組織に組み込まれるみたい」 「えっ?」 社員用ラウンジで昼食をとっていた柚季は、一緒にテーブルについていた同僚の言葉に耳を疑った。 「先月ここのオーナー会社の社長が急に亡くなったでしょう?それで後継問題が浮上したみたいなのよ。結局のところ当面は副社長が昇格して凌ぐみたいだけど、社長のブレーンだった人たちは軒並み反副社長派だったから脇を固めるのが大変で、遂に創業者一族の神保さんまで引っ張り出されることになったんだって」 長年このホテルにいる彼女の情報網は驚くほど広くて正確だ。そのせいで耳が早く、時として上司よりも先にこういった内輪の情報を掴んでくる。 「だったらこっちはどうなるの?」 「本社でグループ全般を統括することになるから、ホテルの業務からは手を引くことになるんじゃない?」 「へぇ、そうなんだ。まだブライダル部門を立ち上げて一年にもならないのに。急な話だね」 そんなこと、彼は一言も言わなかった。 驚き、黙り込んで話を聞いている柚季の様子に気付くことなく、二人の会話は続いていく。 「本人はあまり乗り気じゃなかったようだけど、新しいトップに直々に頭を下げられちゃっては断りきれなかったのかもね」 「ふうん、まぁ、あの人がオーナーの親戚なのは誰でも知っている話だし、やりての神保さんがいずれは経営側に入るんじゃないかってことはみんな予想していたから、想定外ってことではないか」 「そうだね。ただ予想よりも時期が早かったのと、ブライダルを立ち上げたばかりでタイミングが悪かったってことは確かだろうけど、成り行きとしてはあり得た話だから」 その会話を柚季は箸を持ったままぼんやりと聞いていた。 そういえばここのところホテル内で神保の姿を見かけることがなかった。それを感づいた理由に思い至った彼女は、思わず苦笑いを浮かべた。 気づけばいつも自分は彼の存在を意識している。そのスーツ姿目で追い、声が聞こえないかと無意識に耳をそばだて、まるで全身がアンテナになったように神保の気配に注意を払っていた。 最初は無用の接触を避けるために必要だったことだが、今ではそれだけが彼を探す理由と言い切れない自分がいる。 何日も神保の声が聞こえないと寂しくて、彼の立ち寄りそうな場所を選んで近くを歩いてみたりする。そんな自分の行動がこれまた妙に気に障ると同時におかしくて、やるせなさをおぼえるのだ。 それはまるで、憧れの人をこっそりと追いかけた、女子高生だった時のような不思議な気持ちで。 この年になって高校時代もなにもあったものではないけれど、それでも湧き上がってくる思いをどうすることもできない。 前の夫の時には持ちえなかった、この気持ちを、正直なところ柚季は持て余していた。振り返ってみれば、結婚を前提してとして自分の前に現れた哲哉に対して感じたのは、この恋は必ず叶うという結果を見越しての恋愛感情だったと思う。 だが、彼女と神保との間にある何かは、つかみどころのない形の見えないものだ。その不確定的な「もの」に感情が揺さぶられ乱されることで、せっかく時間をかけて築き上げた自分を守る砦を崩されることが、今の柚季には恐ろしくてたまらない。しかしそれでも彼に注意を向けてしまうのを止められない自分自身の変化や、行動と感情の矛盾を受け止めきれずにあがいていた。 「神保さん、今日はこっちに来ているみたい。さっきオフィスに入るところをちらっと見かけたのよ。ま、とにかく私たちはこのまま頑張って、結果を出していくしかないのよね。次に来るトップがどんな風に舵を切るのかは分からないけれど。それじゃ、私たちは午後の準備があるから早めに行くわね」 そう言い残して空いたお皿が載ったトレーを返却に向かう同僚たちを見送った柚季は、持っていた箸を置くとため息をついた。 神保がいなくなれば、心を乱されることもなくなるだろう。また今までと同じように、自分が望む平穏な日々が戻って来るはずだ。なのになぜこんなにも気分が落ち込んでしまうのか。 もう絶対に恋なんてしない。 哲哉と別れた後、そう思い泣きながら過ごした日々のことは決して忘れてはいない。 だがその心の痛手が時間と共に確実に少しずつ薄れていったのもまた事実だ。 神保さんに会いたい。 その衝動を抑えきれず、柚季は社員用のラウンジを出た。もしかしたら彼はもう部屋にいないかもしれないというのに、そんなことは考えもしなかった。 こうして神保のオフィスの前まで来た柚季だったが、そこでやっと自分の無鉄砲さに気付いた彼女は、ノックしようとあげた手を力なく下ろすとドアの前で項垂れた。 今まで散々彼を避けておきながら、自分から会いたいと思うなんて虫が良すぎる。それに、今こんな風に彼に会って、自分は一体何を言おうとしているのか。 気づけばそろそろ休憩が終わる時間になっていた。 彼女はのろのろと回れ右をしてドアの前から立ち去ろうと足を踏み出した、その時だった。 「柚季?」 突然背後のドアが開き、彼女は何が起きたのか分からないままに気が付けばオフィスの中に引きずり込まれていた。 HOME |