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Chapter U

   スリーピングビューティーの憂鬱  12


オフィスでの情事の後、柚季は動けるようになるとそそくさと身支度を整え、逃げるようにしてその場を後にした。
何といってもまだ勤務時間中だ。
そんな彼女の様子に、もはや神保も何も言わなかった。
廊下ですれ違うスタッフに怪しまれないよう、さりげないふりをしながら早歩きし、教会の控室まで逃げ帰った柚季は、そこでやっと安堵の息をついた。
給料を貰う身でありながら、仕事中にオフィスでこんなことをしてしまったことが信じられない。自分の平素の行いから考えても魔が差したとしか言いようがなかった。
「何やってるんだろう、私」
だがそれを言うなら神保だってどうかしている。
あれほど職場での公私混同を嫌う人が、井川のことを「昔の男」と決めつけ、彼女を問いただしたのだ。そして挙句の果てにあんなところで……
「……信じられない」
まるで恋人の昔の彼氏に対する嫉妬ともとれる神保の言動に、柚季は戸惑いを覚えた。
確かに彼とは数回ベッドを共にしたが、それには何の束縛もなかったはずだ。特に彼女にとっては彼に抱かれることで、自分がまだ「女」であるという事実を自覚させられることは未だある種の苦痛を伴い、それゆえに神保という存在を必要以上に近づけたくないという防衛本能が働いてしまうのはやむを得ないことだった。

大体、井川のことだって、彼の思い違いはまったくもって甚だしい。
確かに十年近く前には三姉妹の中では柚季が井川に一番近く、つり合いも取れる年齢だったに違いない。だがあの当時、どこからもそういった話は一切なかったし、第一に彼女にはすでに前田哲哉という婚約者がいて嫁ぎ先も決まっていたのだ。
柚季にとって最初から、井川は若いながらも切れ者の、父親の有能な部下という存在でしかなかった。
井川の方も周囲から……恐らくは桐島の父親からも妻に迎えるならば妹の梨果を、という具合に話が向いていたはずだ。
何事にも秀でていた梨果は、桐島の将来を背負って立つであろう井川にとって最高のパートナーに成り得たはずだった。何より妹自身にもグループの頂点に立つだけの素地があり、誰もが彼女が後継と認めるだけの素養を持ち合わせていたのだから。
唯一それを是認しなかったのは父親だけで、それゆえに彼は妹を後継候補から外し、独断で井川をトップに据えることを決めた。元々父親に反抗的な態度を隠さなかった梨果の反発は家族も覚悟していたが、まさか家を捨てて出奔までしようとは、誰も予想できなかったというのが正直なところだった。
無論、父親もそうだっただろう。表向き、刃向う娘を切り捨てたようなふりをしながら何とか手元に取り戻そうと躍起になって策を弄していたことを家族は皆知っている。
その際に自ら汚れ役を買って出たのが件の井川だった。
こうして公の場での父親の腹心の部下というだけでなく、私人としても桐島の家の中へ深く入り込んだ井川は今や末妹の婚約者だ。
尤も、妹の杏は梨果と違って昔から井川のことを慕っており、結婚にも拒否反応を示さなかった。むしろ彼女自身が望んで彼を夫に迎えることに同意したといっても過言ではないかもしれない。
梨果が去った今となっては、桐島の家と会社を維持していくのは杏一人の力量では難しく、不可能といってもよいくらいだろう。どのみち将来に自由を望めない立場にある妹が、彼女の好きな男性と添うことができるのならば、柚季も姉としてできる限りのことをしてあげたいと思っている。
それがどうして井川が自分と……などということに結びつくのかが、柚季には理解できなかった。
「とんだお門違いだわ」
彼は妹の婚約者だ。それ以上にも以下にもなりようがない。
柚季は庭の方を望む窓のガラスに額を押し付けて目を閉じた。
神保からあらぬ疑いを掛けられたことが腹立たしいと同時に関係を疑われたこと、それ自体が哀しく思えるのはどうしてだろうか。
その答えは、彼女が最も気づきたくないと恐れていたものに他ならなかった。


それからしばらくの間、幸か不幸か柚季は職場で神保と顔を合わせる機会がなかった。
平日で彼女の勤務がまばらにしかなかったこともあるが、神保もいつも以上に多忙を極めていたようで、スタッフルームの方にも顔を見せることがなかったからだ。
どんなに時間がなくとも、ホテルにいる時には必ず自分がチェックをして回っていた彼がそれも叶わないほど何に忙殺されていたのか。いろいろな憶測はあったものの、誰もその真相を知る者はいなかった。
だが後日、スタッフの噂に端を発した話の真偽はホテルにもたらされたある情報により一気に広まることになる。




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