夕方、少し早目の時間にマンションを出た二人は、どうせお酒を飲むのだからという理由で車を置いて電車で目的地に向かった。 最初タクシーを呼ぼうとした一真に対し、公共機関を使うべきと言い出したのは梨果の方からだった。 「遊びに行くのにタクシーなんて贅沢よ。そんなものを使うのは病気で動けなくなった時だけで充分」 そうあっさり言い切られ納得させられたことを、彼は密かに楽しんでいた。生まれ育ちはお嬢様であることに間違いない彼女だが、感覚は全くの庶民であるというそのギャップが面白い。 彼女は本当に飽きない女だ。 内心そんなこと思ったが、もちろん安易に口にはしない。そんなことをすればたちまち梨果の不興を買い、逆襲されるのは目に見えている。 最寄り駅まで徒歩で10分足らず。そこから電車や地下鉄を乗り継ぎ、目指したのは都内有数の繁華街にある、有名ホテルの上階のフレンチレストランだ。 教えられていた予約時間は7時。 だが、ホテル近くの駅に着いた時、時刻はまだ6時にもなっていなかった。 一真は目的地にまっすぐ向かおうとする梨果を促すと、ホテルとは逆の方向へと足を向ける。 「まだ時間があるから、ちょっと付き合え」 「どこに行くの?」 「行けば分かる」 一真はそう言い置くと勝手にずんずんと前に進んで行き、こうなれば彼女も後を追いかけるしかない。 「本当に勝手なヤツ……まぁ、いいけど」 肩を竦めながらも、梨果は先を行く彼の後に続いたのだった。 「……ここ?」 そうして二人がたどり着いたのは、かの有名なジュエリーショップだった。 「ほら、入るぞ」 「えっ?な、何でこんなところに」 「決まっているだろうが、指輪を買いに来たんだ。こんなところに大根やニンジンを売ってるわけがない」 「バカ。そんなことくらい分かっているわよ。でも……」 入り口で躊躇する梨果を引きずるようにして店内に入った一真は、店員を呼びつけるとそれらしいリングが並ぶショーケースの前へと彼女を引っ張って行く。 「このあたりの、どれでも好きなのを出して見せてもらえ」 そう言って彼が指さしたケースの中の値札を見た彼女は顔色を変えた。 「じ、冗談言わないで。こんなの貰えないわよ」 それらは通常彼女たちが言うところの「月給の3ヶ月分」をはるかに超えている。 何せ値札の数字が一桁違うのだ。 いつまで続くかも分からないこの結婚に掛ける経費としては、これはあまりにも大胆且つ無謀と言わざるを得ない。 「お前、俺の収入を見くびっているな。これくらいは買えるぞ」 もし本当にこれが3ヶ月分相当だというならば、彼の半年分の給料で梨果の一年分を軽く超えてしまう計算になる。 一体彼は月にいくら給料をもらっているのか、聞くのも怖いくらいだ。 「嘘」 「本当だ。だから買ってやるというものは素直に受け取っておけ」 「でも……」 「それとも何か、もっとランクが上のものの方が良いのか?」 そこで今まで口を挟まず、側で二人の会話を聞いていた店員が初めて動いた。 「それでしたら、あちらの方にもございますよ」 店員が示したあたりは目の前のものよりまた一段とついている石が大きく、眩いほどの光を反射する豪華なリングが並んでいる。それを見た梨果は更に表情を曇らせた。 「そんなの、私がしても似合わないわ」 そう言って彼女がおずおずとショーケースの上に差し出した手はガザガザだ。 「荒れちゃうのよ、仕事柄どうしてもね。特に冬場はきついの。手荒れは酷いし、もっと寒くなれば指がしもやけてパンパンになっちゃうし。だからそんな綺麗なリングは似合わない。この手を見れば納得してくれるでしょう?」 一真は差し出された彼女の手をじっと見つめた。 若い女性にしては節の目立つ太い指、ぎりぎりまで短く切りそろえられた爪、小さな切り傷やあかぎれが手の甲や爪の生え際のあちこちにできているその様は、明らかに現場で働いている人間の手だった。 「分かった。それじゃ、しもやけて浮腫んだ指にも似合う、迫力のあるデカイ石つきのド派手なのを買ってやる」 「ちょ、ちょっと、何言い出すのよ。私はそんなの合わないって言ってるじゃない」 「お前が選ばないんだったら俺が適当に買うまでだ」 一真はきっぱりとそう言い放つと、目の前のショーケースの端から端までじっと真剣に見入り、これぞと思ったものを躊躇なく店員に見せるよう指示している。 彼が選ぶものは例外なくデザインが派手で石が大きく、その上シャンクまでががっちりしているタイプだ。金属部分のプラチナの重みだけでも結構ずっしりと重く、値段もかなり高い。見るからに成金チックで豪勢なリングを目の前にずらりと並べられた梨果は、頭を抱えそうになる。 「もう、お願いだから止めてよ」 「それじゃお前が自分で選ぶか?」 ちらりとこちらをうかがう彼の表情に、わざと彼女を嗾けて楽しんでいるのが感じられて少々むかついたが、それでも梨果は何とかそれを抑えて平静を保った。 「わ、分かったわよ」 「それなら最初からそうすればよかったんだ」 何となく一真の押しに負けたようで面白くなかったが、梨果は渋々ながら良さそうなデザインのリングを一つ二つ選んでいく。 「これ……これがいいかな」 はめる途中で太い関節に引っかかったのを、ちょっと無理をして押し込んだ指輪を見て、梨果は自分の手を空に翳してみる。 そのリングはダイヤモンドこそ控えめな大きさの一石だが、爪やマウント、それにシャンクの部分のデザインが凝っている。優しい曲線で挟まれた中央の石がキラキラと光り、決して派手ではないがその存在を主張していて、上品な美しさを醸し出していた。 「それでいいのか?」 側で様子を見ていた一真は彼女の手を取ると、自分からリングの輝きが見えるようにその角度を変える。 「あ、うん。これが綺麗だなと思って。でも似合わないかな、私の手には。それに……」 リングにぶら下がっている値札は彼が選んだものよりは安いが、それでもかなりの金額を表示している。先にそれを見てしまった梨果はいまいち踏ん切りがつかないのだ。だが、一真の決断はとにかく荒くて速い。 「よし、決まりだな。これにしよう。サイズは後で直してもらえばいい。あとは……」 そう言いながらもまだ何かを探すように店内に視線を泳がせる一真を見た彼女は、慌てて彼の服の袖を引っ張った。 「えっ?まだ何かあるの?」 「ああ。結婚指輪も必要だろう」 「あ、でも……」 「そっちはお前だけでなく、もちろん俺もするつもりだぞ」 「えっ?」 予想外の彼の言葉に当惑する梨果を差し置いて、一真と店員は早速マリッジリングの品定めを始めてしまう。 彼が見つけたペアのプラチナリングは、造りそのものはオーソドックスなデザインのものだ。ただ女性用の方だけメレダイヤが一石、中央に埋め込まれていて男性用はリング自体が女物より若干太目に作られている。 こちらの方は価格も適当で、何とか自分にも手が届きそうなのを見た梨果は、ここで彼に一つの提案をした。 「それ、あなたの分を私に買わせてくれない?」 「ん?俺のをか?無理しなくてもいいぞ。俺は最初から両方自分で買うつもりだったんだし」 「でも、私だって何か一つくらいあなたにプレゼントしたいし」 「そうか?だったら……こいつを頼もうかな」 梨果の申し出に、彼もまんざらでもないといった顔をした。 「でも一つ問題があるのよ」 「問題?」 一真が訝しげにこちらを見る。 「ええ。さっきも言ったけど、私冬場は手がしもやけてパンパンになるのよ。だからそのまま指輪をしていると指に減り込んじゃうから、それが痛くて」 「填めっ放しは無理ってことか?」 「サイズを大きくすればいいのかもしれないけど、そうしたら今度は夏場にゆるゆるになってしまうから」 彼女の指は節が太く、その上下が若干細い。夏場多少大きくてもそこに引っかかっている分には何とかなるが、冬になるとそのサイズでも指輪が腫れた指に食い込んでしまうのだ。 平素あまり使わないだろう婚約指輪と違い、結婚指輪は常に身につけているものという認識の彼女の悩みどころだ。 「そうだな。それならこっちは今のサイズで作っておいて、冬場だけチェーンか何かで首からぶら下げるか」 そう独り言のように呟いた彼は、すぐさま店員にチェーンも出してくるよう言い出す。 「いいわよ。それくらい自分で……」 慌てて断ろうとした梨果を、彼は片方の眉を上げてちらりと見た。 「いいから。この際一まとめにして買ってやる」 「でも」 「いいから任せろ。ただし、適当でいいな。もうそんなにのんびりしている時間はないぞ」 腕時計を見ると、あと10分ほどで7時になる。いつの間にか、そろそろ店を出ないといけない時刻になっていた。 サイズを測り、梨果の方だけリングの直しを依頼した後、二人は決めた通りにそれぞれの会計を済ませて店を出る。 彼のマリッジリングはサイズ直しの必要はなかったが、梨果の方が仕上がるまで一緒に店に預かってもらうことにしたため、直ぐに持って帰ることができた唯一の品は、ホワイトゴールドのチェーンが収められたケース入りの小さな手提げだけだ。 店を出たところで彼からそれを渡された梨果は、小さな声で「ありがとうございます」と呟いた。 梨果だって女性だからこういうものを貰うことは嬉しい。だが、彼の払った大枚のことを考えると申し訳なく思えてしまう。 そんな彼女の気持ちを悟ったのか、一真が宥めるように背中を叩く。 「失くさないように、ずっと持っているよ。まぁ鍵っ子の家の鍵じゃないが、首から下げておけば落とす心配もないか」 「し、失礼な。私は失くしたりしないわよ。こんな……大事なものを」 それを聞いた一真がにやりと笑う。 「そうか、ならいいさ。それより早く行かないと。もう5分の遅刻だ」 「え?た、大変。遅れちゃったじゃない」 土曜日の夜。二人は人ごみの中を縫うようにして足早に歩く。逸れないようにとどちらからともなく、自然にそっと手を繋いで。 HOME |