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Chapter T

シンデレラは眠れない  7


「そんな、急に結婚って、どういうこと?」
電話の向こうで姉が絶句しているのを感じた梨果は、思わず苦笑いを浮かべた。
「だから、この前会った園田さんと結婚することにしたのよ。お互いに条件が折り合ったから」
「でも、昨日の今日でそんな……」
「ついでに今週末には籍を入れるから。うん、そう、堅苦しいことは一切なし。式もする予定はないから」
おっとりとした姉にしては珍しく、矢継早にいろいろ訊ねてくるのを軽く受け流しながら、梨果は自室にある荷物をダンボールの箱に詰めていく。
彼女の現在の住居であるこのワンルームマンションから新居となる彼の家に持ち出すのは、普段使いの衣料品と身の回りの日用品、そして貴重品くらいで、あとは当面借りたままにしておく予定のこの部屋にそのまま置いて行くことにした。
彼とは一年という暫定的な期間を切った関係だ。
その後の更新があるかどうか分からないし、結婚期間中にもしものことがあった場合も考えて、逃げ込む場所を確保しておく必要があると考えたからだ。


週末、あれから彼と場所を移して話し合いをした。
最初は喫茶店で。その後、園田が暮らすマンションに行き、そこで店屋物の夕食をとりながら深夜まで話を詰めた。
まず園田には、内縁関係ではなく、籍をきちんと入れて欲しいと言われた。
次男である彼は姓にこだわりがなく、どちらがどちらの籍に入っても構わないという口ぶりだったが、そこは梨果が彼の名字になることで決着した。彼女には「桐島」に対する執着は皆無だ。むしろこれであの家と縁が切れるのなら、喜んで「園田梨果」になろうと思ったからだ。
園田が入籍にこだわる理由の一つには、もし万が一仕事中の彼に何かあった場合、戸籍上の夫婦として認められているか否かでは、会社のその後の対応や扱いに天と地ほども差ができるからなのだそうだ。
「もし俺が出先で命を落としたら、残された家族にはそれなりの補償が付く。お前もこの先誰にも頼らずに生きていくというなら、金はないよりあったほうがいいに決まっているだろう」
現実的でなかなかシビアな話だが、彼の携わる仕事は常にそういう可能性と隣り合わせだ。一度国外に出れば異文化の中、紛争、気候の変動や自然災害、事故、病気といったありとあらゆる危険がすぐ身近に存在する。
国内で日々同じ仕事と日常を繰り返す梨果には想像もできない世界だった。
あとは彼が国内にいる間は一緒に生活をすること。家計に関しては毎月まとまった生活費を渡すので、そこから家賃や食費、水道光熱費をやりくりしてくれればよいと言われた。
「でも、私も食費くらいは出すわ。さすがにここの家賃までは払えないけど」
彼が提示した額の多さに、梨果は動揺した。これではまるで自分がそっくりそのまま彼に養われている格好になるからだ。
自身も職を持ち、少ないなりにも収入を得ている以上、何某かのものを出さないと彼と対等とは思えないというのは、彼女の意地みたいなものだが、一真はそのあたりに関しては鷹揚だ。
「家計の方はお前に任せるよ。ただ、俺は仕事の関係で朝が早くて夜が遅い。それに年の半分はここに帰れないだろう。家事はできるだけ公平にやるつもりだが、難しいことも出てくるはずだ。そこは最初に言っておくから勘弁してほしい。悪いがフォローしてくれ」
そのあたりのことは梨果にも異存はない。
園田の生活パターンを聞く限り、彼にそこまでを望むのは難しいだろう。成り行きで掃除や洗濯はすべて自分が請け負うことになるのは致し方ない。彼にやる気がないのではなく、時間的、物理的に不可能なのだから。
一方、梨果の出した結婚の条件は、自分は現状のまま仕事を続けること。
それから夫婦間で何か決断が必要なときは、一人で決めずに話し合いを持つことだった。園田はどちらかと言えば独断的で「黙って俺について来い」というタイプだ。
「私にも一言くらい言わせろ」主義な梨果にはそれは容認できなかった。
その他には、一年後、または園田の海外赴任が決まった時点でこの関係を見直すこと、結婚に関して、梨果の実家には口を挟ませないこと、そして万が一互いに本当に好きな相手ができたら、無条件で速やかに結婚を解消することなども話し合って決めた。
しかし予想外に一番話し合いが難航したのは、子供に関してのことだった。
二人の結婚生活を短期間の試験的なものと割り切っている梨果は、もちろん一真との間に子供を持つ気など毛頭ない。それに彼女が仕事を続けることを念頭に置けば、現実問題として子供を産み育てていくのはかなり難しい。そして何より好きな男の子供でなければ、生まれた子共々父親も愛せるような相手の子でなければ彼女には育てられないような気がした。
もしも運悪く自分のような考えの母親の下に生まれてしまったら、それこそ我が子に申し訳がたたない。子供は親を選べないことの悲哀は、自分の経験から嫌と言うほど知っている。だからこそ、軽々しく子供を産むというようなことを考えたくなかったし承諾できなかった。
だが、園田は譲らなかった。
彼は言った。
「勿論避妊はしっかりする。だがこの世の中、絶対ということばは存在しない。だからもしも仮に子供ができたら、その時には堕胎という選択肢は持たないでくれ」と。
健康上問題ない男女が性交渉を持てば、その可能性を100%否定することはできない。無論、梨果は過去に妊娠した経験がないので必ず子供が産めるとは限らないのだが、それでもいずれはその問題に直面することもあるかもしれない。
結局この点だけはお互いに譲れず、結論は先送りとなったが、その他の条件面ではほぼ合意に達し、二人は結婚に向けて踏み出すことになったのだ。
「それでは、桐島梨果さん、俺と結婚していただけますか?」
わざと真面目くさった顔でそう問いかけた園田に、梨果は笑って頷いた。
「ええ。よろしくお願いします」
二人はリビングのテーブルを挟んで握手をする。それはまるで商談が成立した時に交わされる行為のような感じだった。



園田と梨果の話を聞いた両家は大混乱だった。
見合いを取り持った園田の叔母の真野でさえ、「何が何だかさっぱり」と頭を抱えているそうだ。
一真自身が直接結婚を報告した園田家と違い、この話を柚季経由で伝え聞かされた桐島家の方は特にひどい慌てぶりで、母親や姉妹たちから連日何度も電話が掛かってくる始末だ。
だが、梨果は仕事中にそれらに一切応じることはなく、帰宅してからも何度かあった電話やメールを無視し続けた。
さすがにそのことに痺れを切らした柚季が「会社に会いに行くから」と留守電に吹き込んだのを聞いた梨果が、仕方なく姉の携帯に電話したのはその週の半ばのことだ。
「結納なんてしないわよ。特別何も買いそろえる気はないし。結婚式も披露宴もするつもりがないから。あ、そうそう新婚旅行も行かないって」
すべてがないない尽くしのように聞こえるが、それも致し方ないことだろう。これは普通の結婚ではなく、あくまでも二人の合意の上に成り立つ、一種の契約のようなものなのだから余分なセレモニーは必要ない。


この慌ただしい騒動の矢面に立たされた一真は、園田家と桐島家双方からかなりいろいろと言われたらしい。
土曜日に入籍をするために出向いた区役所で、待ち合わせた彼はげんなりとした顔をしていたが、それでも彼の保証人の欄には彼の父親の名が記入されていたところを見ると、何とか承諾は得たようだ。ちなみに自分の方は姉の柚季が保証人になってくれた。
土曜日ということもあり、役所の休日窓口に届けを出した二人は、晴れて戸籍上の夫婦となった。
結婚とは何て簡単なものなのか、というのが彼女の今の偽らざる感想だ。名前を書き、判子をついて書類を出す、それだけで梨果は一真の妻となり、彼は自分の夫となったのだ。
いくら結婚に夢を見ない梨果でも、ここまで味気ないものだとは想像できなかった。
それでも週明けに婚姻届が正式に受理されれば、二人は世間的にも紛うことなき夫婦と見做される。
「園田梨果か。何かまだイマイチ、ピンとこない」
役所の駐車場に停めてあった彼の車の助手席に乗り込み、そう呟いた彼女に、園田も笑って頷いた。
「そうだな。俺も自分が配偶者ありの欄に丸を打つなんて考えたこともないからな」
駐車場から車を出すと、二人は今日から一緒に暮らす予定の新居へと向かった。今夜は一応入籍記念日ということで、夜にはディナーを予約している。それまでに一度自宅に戻り、二人で一緒に必要なものをチェックすることにしていたからだ。

今、梨果が住んでいるワンルームマンションは会社から自転車で10分くらいのところにあり通勤にはかなり便利だった。これからは電車を乗り継いで一時間近くかかるようになる。多少不便になるが、これは致し方ないことだと割り切った。
園田は自分が長期の出張で不在の間は彼女のマンションに戻ってもよいと言ってくれていることだし、梨果もそうするつもりだった。彼がいなければいくら豪華で快適な住処であっても、わざわざ通勤に不便なところにいる必要性は感じない。
もう何度となく訪れたその園田の住むマンションはセキュリティーのしっかりした豪奢な造りで、家賃もそれなりにする。3LDKの広さがあり、以前は彼が書斎代わりに使っていた洋室を一つ空け、そこを梨果専用に提供してくれた。
とはいえ衣類や日用品以外は左程の荷物を持ち込む予定がない彼女にその広さは贅沢すぎるものだ。一昨日の木曜日にダンボール箱を3つほど運び込んで作りつけのクローゼットにしまったが、それでも中はガラガラで、殺風景なものだった。室内にもほとんど家具らしい家具はなく、結婚に際し大き目なベッドを買い直したことで不要になった彼のセミダブルを梨果が一人の時に使えるように入れて、何とか部屋の形にしたような状態だった。
マンションの地下駐車スペースに車を停め、帰る途中で買った幾つかの日用品を持った二人は自宅へと戻るエレベーターに乗り込んだ。
25階建ての建物の18階。自宅はかなり高層部分にある。

渡されていた鍵で占有エントランス部分にある門扉を開け、あとは暗証番号を打ち込む。
二日ぶりに入った玄関の脇には崩して畳まれたダンボール箱が大量に積んであり、今までと違ってどことなく雑然としているように思えた。
変だな。
そう思いながら靴を脱いで上がった梨果は、真っ先に自室のドアを開けて思わず息を呑んだ。
「ちょっと。何なのよ、これ」




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