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Chapter T

シンデレラは眠れない  5


「別に知りたいとも思わないけど、一応聞いておいた方がいいのかしら」
梨果はカップの底に残ったコーヒーを飲み干すと、ペーパーナプキンで口元を拭う。
その素っ気ない態度を気に留める風でもなく、彼は冷めかけのコーヒーを一口啜った。
「今回叔母が持ち込んだ見合い話に乗ったのは、まわりが煩いからというのが一番の理由だ。俺は年が明けるとすぐに三十一になる。女性程ではないかもしれないが、それでも親兄弟には結婚をせっつかれることが増えた」
問わず語りを始めた園田に、梨果はおざなりに頷く。
「分かるわよ、それ。私も同じようなものだから」
「一年の半分上が海外出張、時には数か月や半年スパンで家を空けることもある仕事柄、昔ほどではないにせよ、こちらで家庭(ベース)を持って私生活の管理をしっかりしろという時代錯誤の風潮が今も社内には根強く残っていてね。三十路にもなって一人でふらふらしている人間には結構風当たりが強い」
「ふぅん、それはご愁傷様」
「それにいずれ海外赴任となればできるだけ家族は帯同するつもりだから、妻になった女性はそれに従える状態で待機してくれていることが望ましい」
その言葉を聞いた途端、それまで反応が薄かった梨果が目を剥いた。
「何、それ。奥さんは外で働くなってこと?」
「そこまでは言わないが、キャリア重視の職業に就くのは無理だろうな。ひとたび辞令が出れば一、二か月でこちらを引き払って任地に行くことになるから、その間で片がつくような職場条件でないと困る。だから俺はそんな環境を容認できて、なおかつ柔軟でタフな女でないと、一緒になれないって注文をつけておいたんだが」

何という時代錯誤で自己中なセリフ。
そりゃぁ、私じゃ端から無理。条件厳しいわ。
梨果は心の中で呟いた。
夫が年の半分も家に戻らないというのは、まぁこの際不問にしよう。互いに自由がきくし、ある意味新鮮味が損なわれなくて良いくらいかもしれない。しかし、夫のためには自分の生活もキャリアもすべてを投げ打つなんてことは、梨果には到底受け入れられない話だった。
「最初に聞いていた話では、君はすぐにでも会社を辞めて家に入りたいと望んでいるということだった。今の仕事は単なる腰掛けだと。だから女性で君くらいの年になると、年齢的にも早く落ち着きたいものなのかなと思ったんだ、これは渡りに船だとね。しかも相手が桐島家の娘なら、こちらも対外的にも箔がつく」

ふぅん。そういうことだったのか。私はひとこともそんなことを言った覚えはないんだけど。
テーブルに片肘をつき、右手で顎支えて園田の話を聞いていた梨果は、皮肉っぽい笑みを浮かべた。
実家の親の邪な企みはさておき、彼の言ったことは、これまで幾度となく勧められた他の見合いの相手の打算にそのまま通じるところだろう。違いと言えば、梨果自身の年齢が限りなく三十代に近づき、相手にそう信じさせる要素が増えたことぐらいだ。
桐島という家の名はビジネスの世界では何かと通りが良い。そのせいでこれまでも桐島の影響力を狙って話を持ちかけてきた人間がいたことは確かだ。それを隠すことなくはっきりと彼女に告げた園田は、耳触りの良い言葉でお為ごかしを言わないだけ今までの見合い相手よりまだましなのかもしれない。
「私は結婚するつもりなんてない。それはさっき言ったわよね」
梨果はカバンの中のタバコが入ったポーチに伸ばしかけた手を止めた。今座っている場所が禁煙席だと気付いたからだ。それにここには小さな子供がたくさんいる。
何気なく禁煙席を取ったことや灰皿を探すような素振りを見せないところをみると、どうやら目の前の彼は煙草を吸わないようだった。
仕方がない、もう少し我慢するか。
常日頃から周囲に不快感を与えるような喫煙はしないようにと自らを戒めている彼女は、食後の一服を諦めた。
「結婚は本人たちの問題っていうのは容易いけど、実際そんな単純なものじゃないことは分かっているつもり。家がらみや会社関係や世間の目、そんな柵に一度取り込まれたらあとはもう蟻地獄と同じで身動きが取れなくなる。自由のない生活を押し付けられるなんて真っ平御免よ」
それでもまだ、結婚する時は良いだろう。何だかんだ言っても本人たちはそれなりに幸せを感じているだろうし、周りもみな祝福ムードで二人を囃し立てる。だが一度その関係が拗れると途端に主張という名のエゴの押し付け合いが始まる。そしてやがてそれが悪口雑言のぶつけ合いとなり、遂に離婚ともなれば醜い権利の争奪戦が繰り広げられるのだ。
もしくは彼女の母親のように、体面を保つためだけにその状況にただひたすら耐えることによって不毛な結婚生活を維持していくか。そのどちらかの結末しか、彼女には思い描けない。
悲しいかな、彼女の中に「自らの幸せな結婚」というものの想像図はない。
たまたま生まれた場所のめぐり合わせが悪かったのか、はたまた取り巻く環境がそれを妨げるようなものだったのかは定かではないが、ともかく彼女の周囲に結婚して幸せになったと思える先例がほとんどない。結婚観が少々捻くれていて、穿った見方しかできないのも致し方ないことだろう。

タバコを咥えることもできず、手持無沙汰な指先で無意識に唇を触りながら、梨果は前に座る男を繁々と見つめた。
程よく日に焼けた浅黒い肌に短く刈り込んだ漆黒の髪。全体としては整った顔つきの彼は、ハンサムというよりはどちらかというと野性的な感じの、見るからに肉食系の精悍な顔立ちをしている。しかし一度その唇が歪んだ笑みを作ると、途端に皮肉っぽいニヒルな陰のある表情があらわれる。
着ている服は一目で高級品と分かるような、かの有名な英国ブランドのもので、さっきレジのところで財布を取り出す時にちらりと見えた腕時計には、黒いフェイスに誇らしげな王冠のマークが刻まれていた。
ちなみにその長財布と、恐らく履いている靴もグッチだ。
彼女だって若い女性だ。たとえ自分の人生にはまったく縁がないものだとしても、それらがどのくらい高級なものかぐらいはちゃんと心得ている。
彼は世間でいうところの一握りの選ばれた人種、地位も金も持っているエリートであることは間違いないだろう。これほど美味しそうな条件が揃っている男性なら、いくら桐島ブランドのついた女でも、わざわざ自分のように世を拗ねたアラサー女を選ばなくともついてくる女性はごまんといるに違いない。
梨果は視線を落として自分の薄汚れたランニングシューズに目を遣った。彼の履く靴一足で、この運動靴が一体何十足買えるだろうか。そう考えるとこの取り合わせが途轍もなくナンセンスなものに思えてくる。
だからと言って彼女は自分がそんな高級な靴を履きたいとは思わない。実用的で日々歩くのに不自由がなく、履き心地さえ悪くなければ色や形はどんな靴だって構わない。
高価な靴は彼女にとっては無用の長物だ。そんなものにお金を費やすより、もっと優先されるべき日用の品々はたくさんあるのだから。
しかしながら、彼がその靴を履くことを贅沢だと糾弾する権利は梨果にはない。彼には彼の、そして自分には自分なりの価値観と言うものがある。ただ、二人は住んでいる世界がまったくと違うというだけだ。
このまま互いの主張を曲げることなくそれらを無視して帳尻合わせのような付き合いをしても、いずれ意見が対立して物別れに終わるのが関の山だろう。
加えて結婚を考えるなら彼女にはどうしても譲れない事柄がある。それは経済的な主導権の問題だ。
「それから私は自分の生活費は自分で稼ぐ……誰にも頼らず経済的に自立することが大事なの。だから今の仕事を辞めるつもりはないわ。仮に生活を共にすることになれば、まず一番にその条件を受け入れてもらえる人でないと困るわね」
「一生家族が食うのに困らないように、俺がしっかり稼ぐと保証すると言ってもか?」
「その一生ってのが曲者なのよ。それにそんな保証はあてにできない。未来のことなんて誰にも分からないんだから」
梨果はそう言うと小さく肩を竦めた。
お金お金とさもしいことを言うようだが、実際のところ先立つものがないと生活は成り立たない。自身に経済力がなく、資金の供給が断たれた時の苦しみを彼女は身を持って経験済みだ。
彼女とて高校を出るまで、金銭的にも物質的にも何一つ不自由をしたことがないお嬢様だった。それが一転、父親の意に背いたことですべての資金源を断たれ、人生で初めて食べる物にも事欠くという苦労を味わった。
その時手元にあったのは、祖母が三人の孫娘に均等に残してくれた遺産のみ。それも大学の学費を差し引くとほとんど残らない計算だった。その上父の意向が働いていたのだろう、親戚たちは皆、誰一人として苦境に陥った彼女に手を差し伸べようとはしてくれなかった。
誰にも縋ることができないまま、幾度も先の見えない心細い思いをした。その中で唯一の頼みの綱は、自らの手で稼ぎだしたお金だった。それは今までの豊かな実家の暮らしでは想像もできないくらい微々たるものだったが、これだけは、何があっても彼女を裏切ることはなかった。
学生時代、周りの同級生たちと同じように労働の報酬としてアルバイト代を受け取っていた梨果だが、その用途は全く違っていた。彼らには遊興費となるお小遣いが、彼女にとっては日々の命の糧のすべてであり、自分が生きていくために絶対不可欠なものだったのだ。
だから社会人となり仕事を得て収入が安定し、公共料金の支払いや明日の食費の心配をしなくても済むようになった時の、あの安堵感と解放感は言葉では言い表せないものがあった。
その時梨果は心に誓ったのだ。手に入れたこの安寧は、どんなことがあっても、もう二度と手放さないと。

園田が妻に臨む条件は、それとは相容れないものだろう。彼が求めているのは、自分に従い家を守るハウスキーパーのような女性だ。そんな立場は彼女にはとても受け入れられるものではない。
まぁ、結婚の現実って、案外そんなものかもしれないけど。
梨果は彼に悟られないように、ため息をついた。
そもそも結婚というのは聞こえの良い甘い罠だ。ひとたびかかると、これが知らぬ間に外れない枷となり、いずれ自身の自由を脅かすようになる、と梨果は思う。
たとえどんなに結婚の社会的、経済的な利点を説かれようとも、絡めとられたその先には必ずと言ってもいいほど大きな落とし穴が口を開いて待ち構えているように思えてならないのだ。

まぁ、姉さんの時がそうだったし、多分ウチの親たちの場合も、そんなものだったんじゃないかな……

梨果はそれらを現実のものとして間近で見てきたが故に、悲しいかな結婚に対して夢も希望も抱くことができない。
安穏とした生活を手に入れる代償が、誰かから精神的、肉体的、そして経済的な束縛を受けることだというのなら、彼女にはそんなものは必要ない。その圧力に屈するくらいなら、自分の力で、一生一人で生きていった方がまだましだというのが、彼女自身が自分のこれからの人生に下した結論だった。

「もしも……」
それまで黙って何かを考えていた様子の園田が口を開く。
「もしもそれら条件を満たせば、お前はこの話を……俺との結婚を前向きに考えても良いと思っているのか?」
「えっ?」
まさかそんな言葉が返って来るとは思っていなかった梨果は、投げかけられた問いに一瞬ぽかんと口を開けた。
「経済的な自立が保てるなら俺と結婚してもいいと言うのなら、その条件呑んでやろう。どうだ?俺と結婚しないか」




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