BACK/ INDEX



Chapter T

シンデレラは眠れない  21


病院に着くなり、梨果は救急外来へと運び込まれた。
体を丸め、脂汗をかきながら痛みを訴える様子を見た看護師によって、すぐに当直の医師が呼び出されたようだ。
本人に症状を問えるような状態ではないと認識したのか、付き添ってきた柚季に経過を聞いた医師は、彼女を処置室から検査室へと移した。
その間一真はカルテを作るための書類を書きながら、彼女について自分がいかに多くの知らないことがあるかを痛感させられた。
病歴やアレルギーの有無、薬疹の経験はもとより、体重や血液型など、普通の夫婦なら知っていてもおかしくないようなことさえ、彼は関知していなかった。今さらながらその事実に気づき、打ちひしがれて返ってきた一真を、柚季は処置室前の待合で迎えた。
「梨果は?」
「今検査室にいるわ。もう少ししたら一度処置室に戻されるから、ここで待つようにって看護師さんが」
「あの、さっきあいつが言ったことは……」
「ちゃんと伝えてあるわよ。『でしたら一番最初にその検査をしますから』って、お医者様が」
「そうですか」
それきり二人の間には気まずい沈黙が流れる。
先にそれを破ったのは柚季だった。
「世の中うまくいかないものよね。待ち望んでいたところにはなかなかできないくせに、どうしようかって悩むようなところには苦も無く授かるかもしれないんだから」
柚季はそう言って、寂しそうな表情で彼を見上げた。
「一真さん、あなたはどうするつもり?」
改めて聞かれた一真は、言葉に詰まった。今までならば「もちろん産んでもらいたい」と即答できただろう。しかしあれほど感情的で不安定な状態を見てしまった以上、不用意なごり押しをすれば彼女が潰れかねないという不安に駆られた。
「分かりません。いえ、分からなくなったというのが本当のところか」
夫婦でいる以上、子供を持ち、家族という形態を作っていくことでより一層その関係を緊密にできるという考えは間違いではない。ただ、自分たちの場合には、そうなることで梨果に精神的な犠牲を強いる可能性が生じることを念頭に置いておかなければならないということを、彼はおぼろげながらもやっと理解したのだ。
そんな一真と並んで腰を下ろしながら、柚季は問わず語りを始める。
「あの子は昔からずっと兄弟姉妹たちの中で立場的に難しいところに置かれていたの。だから一見、今は家と距離を取って自由になっているように見えても、まだまだ強迫観念に縛られているのだと思うわ」

梨果にとっての不幸は、姉妹の中で彼女が図抜けて優秀だったことだろう。
特に杏と双子の兄弟だった譲が早世してから後、彼女は周囲や家族から桐島の後継者という過度な期待を負わされることになってしまった。加えて妹の杏の年齢が二人の姉たちと少し離れていたのも梨果にとっては不運だった。
息子亡き後、女性である梨果の力だけでは桐島全体をけん引するには不十分と断じた父親は、彼女が高校を卒業した時点で、本来ならば亡くなった譲の腹心となるはずだった井川を婿にすることを決定した。その時大学在学中だった柚季にはすでに縁談があり、嫁ぎ先は決まっていたし、梨果よりも5歳年下の杏はまだ中学生でとても話にならない。
条件的にも年齢的にも、釣り合うのは梨果だけだからという理由だった。
結果として、彼女は自身が後継者としてグループを率いる実力を持つことを否定され、剰え配偶者まで宛がわれて次の世代、即ち彼女の子に男児を得ることを求められたのだ。
当然、梨果はそれを受け入れることを拒み、抵抗した。
父親も、自立心が強く人に動かされることを嫌う梨果が反発することは承知の上だったのだろうが、よもや家や家族を捨てて出奔してしまうとまでは思っていなかったようだ。梨果の計算外の行動に、両親は慌ててあらゆる手段を講じて彼女を連れ戻そうと画策したが、結局どれも実を結ばず、今の状況に落ち着いたということだった。

「だから梨果はそういったことに特に敏感で、神経質なの。もし自分が産んだ子を柵から守りきれなかったら、その恐怖が更にあの子を雁字搦めにしているのね。結婚に対してもそう。どうしても自分のためだけでなく家を絡めてしまうせいで一歩引いて相手を見てしまう。だから単なる同居人としてなら冷静でいられるのに、ひとたびその関係に感情が入ってしまうと、途端にどうしていいのか分からなくなってしまうのよ」
彼女が言っていることを咀嚼しきれない一真は、眉間に皺を寄せながら首を傾げる。
それを見た柚季は困ったような顔で苦笑いした。
「分からない?梨果は……あの子は多分あなたのことが好きなのよ、少なくとも気に入っていることは確かだわ」
「えっ?」
不意を衝く柚季の言葉に、驚いた一真は目を見開いた。
「でなきゃ、あんな風に罪の意識に苛まれて逃げ出したりなんてしないでしょう?」
「そ、それは……」
言葉に詰まる彼の背後から廊下を踏みしめる靴底のゴムの音と車輪に回る金属音が聞こえてくる。
「あら、戻って来たみたいね」
振り向いた一真の目に、ストレッチャーに乗せられた梨果の姿が映る。立ち上がった二人に、ストレッチャーを引いてきた看護師が声を掛けた。
「患者様は一旦処置室に入りますから、ご家族の方は先生の話をお聞きになって下さい」
緊張してドアを入った一真と柚季に椅子を勧めると、当直医は持っていたカルテを捲って何やらチェックを入れている。
「あの、妻は……」
焦れた一真の問いかけに、医師はカルテから顔を上げてこちらを見た。
「まず最初に、奥さんは妊娠はされていませんよ」
「えっ?」
「違ったんですか?」
それを聞いた二人は、同時に声を上げた。
「ええ。検査結果は陰性でした。奥さんに伺った最終月経と思しき時期から考えても、現時点での妊娠は、ほぼないと言えると思います。飲酒や喫煙までやってしまって、影響が出たらどうしようとご本人がかなり気にしていらっしゃいましたからね。一応結果はお伝えしてあります」
安堵とも落胆ともつかない表情の一真を見て、医師が苦笑する。
「ただし、胃に潰瘍ができかかっていて、腸が炎症を起こしています。微熱や強い腹痛、それに吐き気はそれらが原因ではないかと疑われます」
「胃と腸に炎症ですか」
「恐らくは。ただ、劇症の予兆や出血等の緊急性がないので、詳しい検査は改めて行います。今夜は点滴をして症状が落ち着いたらこのまま帰宅して、様子を見て下さい」


心配しているであろう妹や武原に連絡を入れてくるとその場を離れた柚季と別れ、一真はカーテンで幾つかのベッドごとに仕切られた処置室に入って行く。そこでぐったりと横になり点滴を受けている梨果の元に行った彼は、側にあったパイプ椅子に静かに腰を下ろした。
「やっぱり勘違いだったみたい。ごめん、一人で大騒ぎして」
気配を感じ取ったのか、目を閉じたままきまり悪そうに呟く梨果の髪を、彼の無骨な指がゆっくりと梳いていく。
「そうだな。ちょっと残念ではあったけど」
「残念?」
「ああ。お前と家族が作る、チャンスだと思ったからな」
だが、今の彼はそれがいかにストレスとなり、彼女を追い込むのかを知った。
外向きには強い女を演じながら、その内側では自分の存在価値を肯定することができず、今なお過去の記憶に脅かされ続けている梨果の脆さ。彼が欲するものを手に入れるには、それらも含めた彼女のすべてを受け止める寛容さと柔軟さが求められるだろう。
「お前と俺は世間でいうような愛情たっぷりの夫婦ってわけじゃない。出会いが見合いで、結婚は契約で、そんな風に考えたことさえなかった、そうだよな?」
そんなことは彼女にだって分かっている。今更何を言い出すのかと、梨果は少し身構えながら頷いた。
「だが世の中にはそんな夫婦がいたっていいとは思わないか?」
最初は好きでもない相手と勢いで結婚した。それでも一緒に住んでいるとその生活に馴染んでくるし、自ずと情もわいてくる。
やがてそれが快適だと思えるようになれば、その時々で話し合い、次の段階に踏み出せば良いと彼は言う。
「俺は過去のお前を救ってやることはできない。だがこれから先、二人の未来を護っていくことはできると思っている。だから……」
一真は何か言いかけて止め、彼女の耳元に顔を寄せた。
「俺に人生、賭けてみないか?」
好きでも愛しているでもなく、付いて来いでも一緒に居ようでもない。
ただ一真は「自分に賭けろ」と彼女に言った。
いつでも別れられる契約上の夫婦から、人生を共有する関係へ。
それは彼にとっても人生最大の賭けになることを承知の上で、敢えて彼女に賽を振る権利を委ねたのだ。
「でも、私いい奥さんになんてなれないよ」
「そうかもしれないな」
「子供だって、産めないかもしれないし、何よりずっとこんな風にあなたに迷惑かけっぱなしかもしれないんだよ?」
「お前がいいなら構わないさ。それが分かっていて、敢えてお前を選んだのは俺だからな」
したり顔で言う一真を見て、思わず梨果もくすりと笑ってしまった。
「物好き」
「自分でもそう思うよ」

点滴が終わり、輸液のパックを外してもらった梨果が車いすで病院を出ると、そこにはすでに柚季が呼んでくれたタクシーが待っていた。乗り込んだ妹に、ホテルに忘れていた財布や携帯が入った袋を渡すと、彼女は後ろに下がって、義弟に乗車を促す。
「それじゃ、梨果。しばらくは安静にしているのよ。一真さん、よろしくお願いします」
「このまま柚季さんも一緒に乗って行かれませんか?」
「いえ。大回りになってしまうので、私はもう一台頼んでそちらで帰ります」
彼女はそう言うと梨果が載ってきた車椅子を少し引いてタクシーから離れた。
「すみません、いろいろとお世話になりました」
一真が会釈をするのと同時に車は動き出し、外の通りへと消えて行く。
しばらくすると薬剤のせいで眠気を催した梨果は、車に揺られながら小さな寝息をたて始めた。
それを見た一真はそっと肩に腕を回し、自分の懐にもたれさせた。
「ゆっくり眠れよ」
深くは眠れない彼女にひと時の安らぎと休息を。
彼はそう願いつつ、妻の穏やかな寝顔を見つめていたのだった。


その頃、タクシーのテールランプが角を曲がるまで見送った柚季は、借りてきた車いすを返すために夜間の通用口へ向かおうとした。
「柚季」
暗がりから呼ばれた彼女は小さく悲鳴を上げた。
「もう、驚かさないでください。それより何でこんなところにいるんですか?」
呼び止めた人物が姿を現すと、無機質な照明の明かりに照らされた影が長く伸びる。
「送って行こう」
「結構です。タクシーを呼びますから」
そう言って通用口に向かおうとして、彼女は後ろから伸びてきた手に車いすを奪われる。
「柚季いい加減にしろ」
「もう私にかかわらないで下さい」
憮然とした彼女の様子を無視するように、車いすを引く人物が入口のセンサーを押す。
「いいから大人しくそこにいろ」
そう言い置くと、人影はそのまま自動ドアの向こうに消えて行った。
「なんでなのよ、もう」
一方的に命じられた柚季はむっとしたが、それでもその場から身動きできない自分が情けない。
どうして私はこんなにも人の言葉に従えられ、踊らされてしまうのか。
寒空に浮かぶ月を見上げてそれを問うてみたが、もちろん答えが返ることはなかった。


≪ ChapterT 完 ≫


≪BACK / この小説TOP へ
HOME






Photo by 7style