BACK/ NEXT / INDEX



Chapter T

シンデレラは眠れない  20


「もう私ってば、何でこんなに間抜けなんだろう」
勤務先の社長、武原の自宅の居間に一人残された梨果はため息をもらした。
武原は妻に呼ばれて部屋を出て行ったきり戻って来ないし、当の夫人は梨果に温かい紅茶を運んで来てくれると、そのまま奥のキッチンの中へと消えて行ってしまった。
壁の時計を見ると、もう余所様にお邪魔するには失礼な時間になっている。
そろそろ帰らなければならないと思いつつも、側に誰もいなければそれを言い出すことさえできなかった。


衝動的にホテルを抜け出したものの、自分が何も持っていないことに気付いたのは、自分用に借りているワンルームマンションに向かうタクシーの中だった。
時折しくしくと痛むお腹を押さえながら、梨果は顔を顰める。
「困ったなぁ」
財布もなければ携帯もない。それどころか家に入るための鍵さえ置いて来てしまった。
このままだとタクシー代が払えない。鍵だけでもあれば家に入り何某かのお金を取って来ることも可能だが、それができなとなると万事休すだ。
梨果はぼんやりした頭をむりやり回転させてどうすればよいかを考えたが、名案は浮かんでこない。そのうちにも乗っているタクシーは、自分が借りているマンションにどんどん近づいてしまう。
切羽詰まった梨果は、自分のキーケース以外で唯一自宅の鍵を保管している場所を思い出すと前の座席の運転手に声を掛けた。
「あの、すみません。ちょっと寄り道したいので行先を変更してもらってもいいですか?」
「ええ、どちらの方へ回りましょうか?」
「えっと、この道をもう少し真っ直ぐ行くと大通りがあってその先に工場と倉庫があるのが分かりますか?」
「ああ、武原商店さんのところの?」
「そうです、あそこの事務所に寄りたくて」
「分かりました」
運転手はすぐに車を目的地に向かわせる。だが休日の夕方遅く、到着した事務所は施錠されていて、鍵を持たない梨果は当然中に入ることができない。
「すみません、隣の社長の自宅まで鍵を借りに行ってきます。えっと、何も質代わり置いて行く物がないので、もし何でしたら一緒について行って下さいますか?」
よもや乗り逃げなんて疑われることにはならないだろうが、それでもここまでの彼女の行動は充分怪しいだろう。それを聞いた運転手が困ったような笑いを浮かべた。
「それではこのまま家の前まで車を回して、ついでにそこで待たせて頂くことにしましょうか」
「お願いします」
一応運転手に側まで来てもらい、梨果は玄関の呼び鈴を押して反応を伺う。
応答があり、すぐに中から出てきた社長の妻は、梨果の姿を見るや否や驚いた顔をした。
「梨果ちゃん、まぁ、一体どうしたのよ?」
「すみません、奥さん。あの、事務所の鍵をお借りしたくて。ロッカーの中に家の鍵やら小銭なんかを置いているんで」
「それはいいけど。それよりあなた、その方は?」
少々きまり悪そうにこっそり彼女の後ろに立つ男性の姿を見咎めた夫人は、彼の方をちらりとうかがった。
「タクシーの運転手さんです。料金を払おうと思ったらお財布を忘れちゃってて」
それを聞いた夫人はなんだといった顔で彼女を見た。
「それであそこの鍵?そんなことならわざわざ事務所まで戻らなくても貸してあげるわよ、もう水臭いんだから」
彼女はそう言うと梨果が何か言いたそうにしているのに構わず、そのまま家の奥へと入ってしまった。そして勢いそのまま支払いを受けた運転手とタクシーは半ば強引に夫人によって帰され、マンションにいるはずだった梨果はまだ社長宅の居間で寛いでいるというわけだ。
車はなくてもここからならマンションまで歩いて20分もあれば帰れるだろう。自宅の鍵さえ調達してしまえばそれでなんとか今夜はしのげるはずだ。

「そろそろお暇したいので、事務所の鍵を貸して下さい」
梨果が声を掛けると、キッチンから夫人が顔をのぞかせた。
「梨果ちゃん、そんなに慌てなくても。何だったらお夕飯食べて行かない?」
「すみません、今夜は……」
体調的にも気分的にも何も食べられそうにないし、さっきタクシーに乗っていた時から続く断続的な腹痛も気になった。それに何より今は、いかにして自分がやらかしたことの収拾を付けるかを一人になって考えたかったのだ。
「そうぉ?分かったわ。ちょっと待ってちょうだい。主人に言ってくるから」
そう言い残して彼女が消えて行った廊下の先に目をやりながら、梨果は首を傾げた。
社長夫妻は今日が梨果たちの結婚式の日だと知っているはずだ。それなのにこんな時間に自分が一人でここにいることについてなにも触れないそのわざとらしさが如何にもといった感じで怪しい。梨果は嫌な予感がした。
「何だ梨果っぺ。もう帰るんか?」
やっと戻って来た武原が目の前にどっかりと腰を下ろした。
「ええ。今日はちょっと」
「んならちょっと待っとれ。迎えが来る」
「迎えって……」
「亭主に決まっとるだろう。今頃すっ飛んで来ている途中だぞ、多分」
「そんな……」
悪い予感が的中した。
今一番会いたくない人がわざわざここまで連れに来るなんて。自分がやらかしたことを考えるととても彼に会わせる顔がなかった。
「わ、私、鍵を取ったら自分で帰ります。迎えなんて必要ない……」
「梨果っぺ、お前なぁ」
それを聞いた武原が、いつになく厳しい顔をする。
「そうやって逃げてもなーんにも解決にならん。曲がりなりにもあいつはお前の夫なんだぞ。いつまでもそんな風ではどうするんだ」
「でも、私」
「詳しくは聞かなんだが、今日式場で何かあったのは分かった。あいつ、お前のことを心配して必死で探していたみたいだった。」
そう言うと武原は皺のある節くれだった手で彼女の頭をくしゃりと撫でた。
「お前もいい大人なんだから、自分でちゃんと落とし前はつけないとな。物事から逃げるんじゃなく、いっぺん正面からぶつかってみろや。今時珍しく、あの男にはすべてを受け止める度量となかなかの気概がある。儂はそう感じたぞ」


こうして武原に宥めすかされながら小一時間が過ぎた頃、一真たちが武原の自宅に到着した。
武原の妻に案内されて入って来た彼と、その後ろに姉の姿まで認めた梨果は体を強張らせて俯いた。彼らが礼を述べると気を利かせた夫妻はそっと居間を出て行き、後には彼女と一真、そして柚季の三人だけが残された。
「梨果、迎えに来た。一緒に帰ろう」
梨果はそう言って差し出された彼の手を、まるで恐ろしいものを見るような目で見つめた。
「こうしてここにずっと座っているわけにはいかないことは分かっているはずだ。家に帰って今夜一晩ゆっくりと休んで、そうすればいろいろと考えもまとまるさ」
だが梨果は俯くばかりで、いつまでたってもその手を取ろうとはしなかった。
「帰りたくない」
「梨果」
「帰れるわけないじゃない。あんなことをしておいて、一体どんな顔してあなたのマンションに戻れっていうの?」
彼女は首を横に振ると、目の前の彼を見たくないと言わんばかりに両手で顔を覆った。
「それなら梨果、今夜はあなたのマンションに帰りなさい、一真さんと一緒に。それだったらいいのではない?」
「嫌。私、一人で自分のマンションに帰る」
「梨果?」
「お願いだから一人にして。もう私のことなんて、放っておいてよ」
彼女はそう言って椅子から立ち上がると、一真の横をすり抜けようとした。その刹那、彼を見ることなく小さな声で囁いた。
「ごめん。あなたには本当に申し訳ないことをしたと思っている。だけど……」
そこまで言うと彼女は急に言いよどんだ。
「こんなことになってしまったからには……離婚届は後でこっちから送るから」
「離婚届って、どういうことだ?」
一真は激情を抑え、それでも怒りを滲ませた表情で側に立つ彼女の腕を掴んだ。
ぎりぎりと締め付ける腕の強さに、彼が本気になればどれだけの力が出せるのかを改めて思い知らされる。
そう、彼は常に梨果に対して加減を加えてきた。
無意味な反発で自らを傷つけないように、彼女を真綿で包むように扱ってきたのだ。
だが思い出されるその優しさも、今の彼女には辛く感じられた。
もっと互いに傷ついても本音を語り、エゴさえぶつけ合える関係でを築けていたとしたら、今日のようなことは起こるはずはなかったのだから。
「梨果、どういうことだ?答えろよ」
肩を掴まれ、揺さぶられながら、彼女はようやく彼の顔を見上げた。今では見慣れた彼の顔が、こんなに険しい表情をしているのを見たのは初めてだった。
「梨果?」
「だって約束だったでしょう?互いに別れたくなったら別れるって、最初からそういう約束だったじゃない」
彼女はそう言い捨てると、一真の手を振り切りドアを抜け、廊下の方へと駈け出した。
「待て、梨果」
「梨果?」
一真と姉が自分を呼ぶ声が背中の方から聞こえてきたが、梨果はそのまま玄関を目指した。
だが、靴を引っかけ表に飛び出した彼女は、門を出たところで突然の腹痛に襲われた。
「あ、いたたた」
脂汗が流れ、立っているのも苦しくて、梨果は思わずその場にしゃがみ込んだ。
「梨果、どうした?」
追い付いてきた一真たちが、蹲る梨果に駆け寄った。
「お腹が、痛い」
彼女は何度もそう繰り返すと、体を丸めて唸っている。
「いかん、こりゃ大変だ」
一緒に駆け付けた武原は、そんな彼女の様子を見るなりすぐに救急車を呼ぶために家に走った。
「梨果、大丈夫なの?」
抱き起こす一真と心配そうに覗き込む柚季の姿が、滲んだ目に映る。
「痛い、もしかして……赤ちゃんがいたら……ダメかもしれない」
「赤ちゃんって、お前そんなことは一言も……」
「私も今日まで気が付かなかったんだもん、それにあの時はちゃんと薬飲んだから絶対そんなことはないって思っていたし」
驚いた様子の一真を見た途端、梨果の目から涙が溢れだした。
「本当にそうだかは分かんない。でもこんなにお腹が痛くて。もしもそうだったら、タバコも吸っちゃったし、お酒だって無茶苦茶飲んだから……でも、でも」
泣きながら支離滅裂なことを呟く梨果を膝に抱きながら呆然としていた一真の目に、遠くから赤色灯を回し、サイレンを鳴らしながら救急車が近づいてくるのが見えた。
「梨果っぺ、しっかりせい。今救急車が来るぞ」
武原自らが道まで出て、救急車を誘導する。
そして梨果と一緒にまだショックが抜けきらない一真と柚季を乗せた救急車は、夜の道を病院へと急ぐ。運び込まれた近くの総合病院の、いつもは見慣れた白く明るい巨大な建物が今夜は不気味に闇の中に浮かんでいるのを、一真は不安と恐れを抱きながら見つめたのだった。




≪BACK / NEXT≫ / この小説TOP へ
HOME






Photo by 7style