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Chapter T

シンデレラは眠れない  2


週が明けて火曜日の昼休憩中に、今度は姉の柚季(ゆずき)から彼女の携帯に電話がかかって来た。こちらも久しぶりだが、やはり姉妹からの連絡は掛け値なしで素直に嬉しいと思う。
梨果にはこの3歳年上の姉の他に5歳年下の妹の杏(あん)がいる。
本来ならもう一人、弟が……杏と双子の兄弟の穣(みのる)がいたのだが、彼は中学に上がる前に亡くなっていた。
「週末かぁ」
『そう、どうかしら?』
「うーん、今、滅茶苦茶に忙しいんだけどなぁ」
梨果の勤める小さな食品加工会社は今が原料の書き入れ時だ。鮮度が大事な食材が満載のコンテナが日々倉庫に運び込まれてくるのを用途別に仕分けしていく作業は時間との闘いで、本来なら事務所にいる梨果までもが場内作業に動員される。
すでに今週も先週同様に土曜日は出勤と決まっていた。
「一応社長に訊いてみる。もしかしたら午後遅めの時間なら抜け出せるかもしれないから」
梨果はそう言うと、後でメールを入れるということで一旦電話を切った。
今日は大口の入荷がなく営業も出払っていて、見回した昼時の事務所の中は空っぽだ。
もともとこの会社でここに席を持つのは社長の武原と、忙しい時だけピンチヒッターで電話番に来てくれる彼の妻、営業の50代と30代の男性社員の二人、そして梨果の五人だけだ。従業員数は50名ほどいるがその大半は製造ラインのパートのおばちゃんたちで、彼女らは工場内にある休憩室を使うからこちらにはほとんど来ることはない。

梨果は事務所のドアを出てすぐのところに置かれた灰皿の前に行くと、手にしていた小ぶりなポーチからタバコと100円ライターを取り出した。
学生時代に生活難で何度か禁煙を試みたが、お金に余裕のある友人からの貰いタバコなどが原因でその都度失敗している。今でも止められない喫煙は悪癖の一つだと自分でも分かってはいるが、彼女にとって精神安定剤の代わりでもあるタバコの誘惑にはどうしても抗えなかった。
この事務所は時流に逆らうように、社長をはじめとする喫煙派が大半を占め、吸わないのは社長の妻の一人だけだ。嫌煙家の彼女は近年個々の机の上から灰皿を撤去し、半ば強引に外に喫煙所を設けた。周囲が喫煙を黙認する中で、昔気質の彼女だけは「女がタバコなんてみっともない」と、煙を吐く梨果を見る度に説教を始めてくる。
彼女の雇い主である社長夫妻はどちらも60代半ばの年齢で、大らかな人柄の夫婦だった。平時の事務所は梨果に任せきりのことが多く、粗方彼女の好きなようにさせてくれる。子供のいない社長夫妻に可愛がってもらっている梨果は、彼らを実の親ように思い、慕っていた。
営業の二人も穏やかな人たちで、それぞれが家庭持ち。数多いパートのおばちゃんたちはちょっと口が悪くて姦しいところもあるが総じて面倒見がよく、入社したての頃は梨果もよく無理を言って助けてもらった。中には自分の祖母といってもおかしくないくらいの年代もいる女性たちは、良きにつけ、悪しきにつけ苦言を呈してくれ、今ではどのパートさんともご近所さんのように気軽に声が掛けあえるようになった。

「もう七年目だもんなぁ」
唇から細く紫煙を吐き出しながら、梨果はぼそりと呟いた。
大学の卒業間際まで就職が決まらなかった梨果は、やっとの思いで関東近郊にあるこの会社の事務職にありついた。当時の彼女には、職の有り無しは直接生活にかかわってくる大事なことで、あと一年就職浪人などという悠長なことはとても言える状況ではなかった。
成績はそこそこ、教授の覚えも良い彼女は上場企業も十分狙えると言われていたのに、なぜか試験を受けた名のある会社には悉く蹴られた。そして、もしもこのまま生活資金が断たれ、これ以上暮らしが困窮すれば否応なしに実家に戻らざるを得ない寸前の状況にまで追い込まれたのだ。
それには恐らく裏で桐島家……父親が関与していたであろうことは彼女も薄々感じていた。娘を家に連れ戻すことが狙いで次々と就職の口を潰された彼女がそれに抗うには、職種がどうこうとか給料が多い少ないなどという贅沢は言っておれなかった。人間が食べていくためには、どうしてもある一定の収入が必要なのだから。
しかし藁にもすがる思いで探し出した働き口はことのほか居心地がよく、今では彼女もこの職場にめぐり合わせてくれた幸運に感謝している。給料こそ大企業には遠く及ばないが、ここには働き甲斐のある仕事とスムーズな人間関係、そして何より束縛のない自由な生活があった。
だからだろうか、もう三十路が目の前だというのに結婚など考えたこともない。このまま一生一人でいることになんの疑問もなく、それが自分に合う生き方だと信じて疑わなかった。

家や人間関係に囚われて、それを守るのに汲々していく人生なんて、もうたくさん。

梨果は生まれてから家を出るまでの18年もの間、それらの束縛を受け続けてきた。その状況に馴染み、素直に受け入れた姉妹たちと違い、彼女だけはどうしても与えられた環境に満足することができなかったのだ。
三姉妹の中では一番外交的で決断力があると言われていた梨果は、将来何だかの形で桐島の事業に携わるものだと周囲から期待されていた。彼女自身もそれに応えるよう努力したお蔭で、高校までの成績は常にトップクラスで通した。
だが、やはりどこかに無理があったのだと思う。自分の生き方に疑問を抱き始めた彼女は、ある時期を境に将来に対するビジョンを失ってしまった。それと同時に以前から胸に燻っていた両親や家と言った抑圧者に対する反抗が一気に噴き出してしまったのだ。
結果として、高校を出ると同時に親が敷いた線路から完全に外れ、その期待をすべてぶち壊した。
推薦の取れていた私立の名門大学への進学を蹴り、祖母から譲られた僅かな遺産と奨学金をあてに地方の国立大学へと進学した彼女は、家を飛び出し、入試会場で知り合い意気投合したばかりの男のアパートに転がり込んだ。
諸事情でその男性との付き合いは1年ももたなかったが、彼はアパートの名義だけはそのまま卒業まで貸してくれた。というよりも表向き「解約するのも面倒だから」ということで、家賃や更新費用を梨果が支払うことを条件に、わざと放置してくれたという方が正解だ。
だが実際のところは、親や親族からの援助が得られずその上未成年ということで、新たな住居を借りることさえ容易でなかった梨果のため、事情を知っていた彼が敢えてまた貸しをしてくれたのだ。それだけでも行く当てがなかった当時の彼女にはありがたいことだった。

桐島家の次女のご乱行。
彼女の行いを知った世間の大人たちは皆、そう言って眉を顰めたが、その後の父親の目に余る妨害行為に比べればそんな実害のない噂など痛くも痒くもない。金銭的にも精神的にもぎりぎりのところに更に追い打ちをかけたのは他ならぬ両親と桐島家で、一時期の梨果はかなり追い詰められた状況に陥ったこともある。
しかし彼女は意地と反抗心をバネにして、食べる物にも事欠くほどの極貧生活に耐えながら学業を続け、周囲からの圧力に屈することなく己の力で自分の道を切り開いた。そしてその結果として今の自由を手にすることに成功したのだった。

「おう、もう昼メシは終わったのか?」
そんなことを考えながらぼんやりとタバコをふかしていた彼女は声を掛けられてはっと我に返った。見れば、事務所前の駐車場に停まった会社のライトバンの側に男性が立っている。
身長は160センチちょっとの梨果とほぼ同じくらい、少しお腹が出た白髪の男は武原といい、この会社の社長だ。
「社長、お帰りなさい。何これ?」
彼に差し出されたコンビニの袋の中を覗くと、カットされたロールケーキが3つ入っていた。
「そこのコンビニで買ってきたんだ。ちょっと美味そうだろう?儂と梨果っぺとウチの奴に」
「ありがとう〜社長大好き!」
彼女はいそいそと袋から一つを取り出すと、残りを男性に返した。
「まだ時間があるから、家の方で奥さんと一緒にゆっくりご飯を食べてきていいですよ。ここは私が留守番していますから」
「お、そうか?ならちょっと行ってくらぁ」
そう言って敷地の続きにある自宅の方に歩き出した武原を呼び止めると、彼は立ち止まってこちらを振り返った。
「ん?何だ?」
「あの、今度の土曜日、早めに上がらせてもらっていですか?」
「何か用事でもあったか?何だったら休んでもいいぞ。ここんとこ無理言うて毎週出てもらっているし」
武原にそう言われ、梨果は慌てて首を振った。
「いえ、こんな忙しい時にお休み何てもらえませんよ。ちょっと姉が会いたいって言ってきたので。午後から出かけてこようかと思って」
それを聞いた武原は指でOKサインを作ってにっこりと笑った。
「おお、あの美人の姉ちゃんか。いいぞ、昼で上がって行って来い。こっちのことは大丈夫だから、ゆっくりしてくればいい」
柚季は以前に妹の勤め先を訪ねて来たことがあり、武原とも面識があった。だから梨果は、実は社長が楚々とした姉のようなタイプの女性が好みであることも知っている。
社長のお墨付きをもらい、梨果はそれをメールで姉に知らせる。すると姉はすぐに返信を寄越した。
「土曜日の2時。クインズコート・ホテルの2階ラウンジって。またこんなセレブな場所で……」
梨果は苦笑いを浮かべて携帯を操作しながら、吸いがらいれの口でタバコの火を揉み消した。
そして、こんな場所に相応しいドレスコードで、この時期に着る服なんてあったかなぁ、などと考えつつ、タバコを収めたポーチと頂き物のロールケーキを手に、事務所の中へと戻ったのだった。




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