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Chapter T

シンデレラは眠れない  19


側についていた姉と妹が部屋を出るのを感じた梨果は、のっそりと起き上がると辺りを見回した。
まだヘッドドレスや短いヴェールはテーブルの上に置かれたままになっていたが、幸いなことに、衣裳を脱がせる手伝いをしてくれた係の女性たちは、立ち去る際にドレスだけは持って行ってくれたようだ。
自分では割と気に入っていたシンプルな白いドレスだったが、今はそれを見るのも辛い気分だった。
「はぁ、私って最悪」
梨果はベッドの上に立てた膝を抱いて座ると、深いため息を漏らした。
自分の愚行が情けない。三十にもなろうかといういい年した大人が、周囲の迷惑も顧みず感情のままに暴走し、挙句の果てに昏倒してしまうなんて。
がっくりと落とした頭に痛みが走り、抜けきらない気分の悪さに顔を顰める。
酒はさっきトイレで粗方吐いてしまったが、それでも何やら胃から込み上げてくるもので口の中が苦くなった。
いくらピッチが速すぎたとはいえ、このくらいの酒量で嘔吐するようなことなど今までなかったのに。
そう思った梨果ははっとして自分の腹部を見つめた。
やはりそうなんだろうか。
まさかそんなことはあり得ないと言い聞かせても、湧き上がる不安は一向に拭い去れない。梨果は暗澹たる気持ちになり、無意識に自分のお腹を抱えるようにして項垂れた。
どうしよう。
この結婚生活がいつまで続けられるかも分からないような状況で、一真との間に子供を持つことなど考えられなかった。だが、その可能性がゼロではないことを分かっていながら、感情のおもむくままに彼とベッドを共にしてきたのは自分で、その無責任な行いは言い逃れのしようがない。
彼は最初に言ったのだ。もしも子供ができたら、堕胎という選択肢はないと。
梨果だってそんなことをしたいとは思わない。だが、自分に子供が産めるのか、また何とか産むことはできたとしても、果たしてその子をちゃんと育てることができるのか。あの両親の子である自分に……
それが現実のものとなりつつあることを考えただけで、得体のしれない恐怖が彼女を襲った。
「いやだ。やだやだやだ」
突然パニックに陥った梨果はふらつきながらも何とかベッドからおりると、ドアの方に向かった。細く開けた扉から外を伺うと、往来はあるものの自分に注意を向けるような人の姿は見えなかった。
梨果はできるだけ人目につかないよう部屋を出ると、ホテルの横にある通用口を目指して歩き出した。そこは教会に向かう新郎新婦が使う屋根付きの連絡路にもなっていて、ロビーを通らなくても外部につながっていることが分かっていたからだ。
正面の玄関を避け、通りに出た梨果は、そこでタクシーを拾う。いつもなら贅沢だと躊躇するところだが、今の彼女にそんな気持ちの余裕はない。
止まったタクシーのドアが開き、後部座席に乗り込んですぐに行先を告げると、梨果は深く俯き、両手で顔を覆った。
目の前の問題から逃げ出しても何の解決にもならないことは分かっているはずなのに、現実に向き合えない自分が不甲斐なかった。
いっそこんな意気地のない自分など、どこかに消えてしまえばいいとさえ思えてしまう。さもなくば、今までの何もかもをすべてなかったことにしてしまいたかった。
そう、一真との出会いも、ぶち壊してしまったこの結婚式も、そしてもしかしたら宿しているかもしれない子供のことさえも。



「見つかりましたか?」
再度建物の敷地をぐるりと一周した一真は、反対側から姿を現した柚季たちに息を切らしながら訊ねた。
「どこにもいなかったわ」
「姉さま、一体どうしちゃったのかしら。お財布も携帯も、家の鍵も全部控室に置いたままで。服だって、コートがそのまま残っているし」
柚季と一緒に梨果を探していた杏が、泣きそうな顔で呟いた。
夫婦の自宅の方を姉の智香子が、そして彼女の借りているワンルームマンションを曽田が見に行ってくれたが、どちらにも梨果が戻っている気配はないという。となると、一真には他に彼女が行きそうな場所に心当たりがなく、お手上げの状態だ。
すでに披露宴は終わり、列席した親戚たちは皆、家路についている。最後まで花嫁不在という前代未聞の披露宴に、中には苦言を呈する者もいたが、一真はそれらにひたすら頭を下げ続けて何とか乗り切ったのだ。
後で事情を説明するからという一真の言葉に、両親は何も訊かずに彼と一緒になってその場を収めることに手を貸してくれた。それは先に簡単に理由を話をしてあった姉の智香子や、兄夫婦も同じだった。
「本当にごめんなさいね、一真さん。まさか梨果がこんなことをするなんて」
憔悴の表情を浮かべる柚季に、一真は大きく首を振る。
「いえ。元はと言えば俺がちゃんと彼女に説明しておかなかったことが発端ですから」
「でも……」
それでも柚季が何か言い募ろうとした時、一真のポケットからバイブ音が聞こえてくる。取り出したスマートフォンに表示されていたのは、見たことのない番号だ。
「はい、園田ですが」
とりあえず出てみると、相手はほっとしたような声で話し始める。
『あ、園田君か?武原だが』
「武原社長ですか?」
電話の主は梨果の雇い主である武原だった。
『悪いな。心臓の関係で、機械を埋め込んだからしばらく携帯が使えんのでな。家の電話からだから繋がるかどうか心配だったんだ。ところで今、ウチに君んところのカミさんが来ているんだが……』
「梨果がそちらに?」
一真の問いに答える前に、何やら電話の向こうの武原が誰かと小声で話しているのが聞こえてきた。
「もしもし?社長?」
『おっと、悪い悪い、ちょっとカミさんと話していたんでな。ああそうそう、今日は結婚式だっただろう?何かあったのか。梨果っぺの様子がおかしいんだが』
「梨果を探していたんです。彼女が……彼女はそちらにお邪魔しているんですね?」
勢い込んで問う一真に、武原が茶化した声で聞き返す。
『何じゃ?もしかして亭主のくせに女房の行先を知らなかったのか?』
「ええ。彼女、途中で披露宴会場からいなくなってしまって」
『なんだ、もう早速、嫁に逃げられたのか?』
「誰にも行先を告げなかったので、梨果の姉妹やウチの親たちも巻き込んで、皆で探し回っていたところです」
今度はそれを聞いた武原の方が驚いたようで、急に真面目な調子に変わった。
『そうか、そりゃ大変だったな。とにかく今、梨果っぺはウチで預かっているから、連れに来てくれるか?』
「分かりました。すぐに迎えに行かせていただきます」
『それで……、ん?何だ?』
受話器も押さえず話しているせいで、武原の声はこちらに筒抜けだ。
『なんじゃて?梨果っぺがそんなことを言いよるんか?いや、いかんぞ。一人では絶対に帰らせんからな。儂もすぐ行くから、それまで引き留めておけ』
どうやら電話の向こうに社長と彼の妻は、梨果のことで揉めているようだ。
『とにかく、すぐに来てくれ。お前さんが来るまでは何としてもここに引き留めておく』
「お願いします」
『おお、早めに頼むぞ』
一真は通話を切ると固唾を呑んで彼の言葉を待つ人たちの方へ向き直った。
「梨果が見つかりました。すぐに連れに行きます」
逸る気持ちを抑えきれず、車のキーを握って飛び出そうとする一真を、柚季が引き留めた。
「待って。私も一緒に行きます」
「いえ、俺が一人で迎えに行きます」
首を横に振る一真に、柚季にしては珍しく強い口調で言い募る。
「あの子が一緒に帰りたくないと言ったら?」
「どうにかして連れて帰ります」
「どうやって?」
「何とかします、梨果は俺の妻ですから」
「そして私の大事な妹でもあるのよ。あなた、もしあの子が本気で抵抗したら、力ずくで連れ出すうもり?それともどうやって説得するの?」
「それは……」
「とにかく私を連れて行って。すぐに準備をするから待っていて。いいわね?」
柚季はそう言い置くと、急いで控室から梨果の私物を持ってくるよう杏に言いつけた。
そしてこれから起こるであろう難題に心を痛めつつも、正面から妹と向き合う決意をした義弟の力になる意思を固めたのだった。




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