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Chapter T

シンデレラは眠れない  18


「妻がご迷惑をお掛けした」
鋭い目で自分を見据える一真に、曽田は唇を歪めて挑戦的な視線を向ける。
「いえ。慣れている、って言ったら語弊があるかもしれませんが、まぁこんなことは長い付き合いの間には、初めてではないので」
言葉の端々に、この男が梨果の「ただの友人」ではなかったことを匂わせているのを、一真は複雑な思いで見た。
確かに彼女も歴とした大人の女だ。過去に付き合いのあった男の一人や二人いてもおかしくはないのだが、それでも現在の夫としてはそれが何となく面白くない。
考えていることが表情に出たのか、目の前の男はにやりと唇を歪めた。
「今は本当に普通の友人としての関係しかないですよ。俺にはちゃんと妻と子供がいるし」
そう言って薬指の鈍い銀色のリングを翳すのを見た一真は、ふと自分の左手にも同じようにはまっているリングを見た。
ほんの一時間ほど前、互いの指にはめた、まだ新しい指輪が洗面所の照明を弾いて光る。これを買った時より手荒れが酷くなり、指が浮腫んでしまった梨果が、少し強引に指輪を押し込まれた節を慈しむように撫でる彼の仕草に、少し申し訳なさそうに、それでもはにかんだ笑みを向けていたのを思い出す。
あの時はまだ、よもやこんな展開が待っているとは思いもよらなかったが。
それきり二人は交わす言葉もなく、閉ざされた扉の前に立ち尽くす。しばらくするとようやく目の前の個室のドアが開き、中では梨果が真っ青な顔で壁に寄り掛かるように立っているのが見えた。
「お前、相変わらず考えなしにアホなことするなぁ。そのドレス姿で花嫁が公衆の面前、酔っぱらって派手にリバース……なんてことにならなくてよかったぜ、まったく」
一真が動くより先に曽田が自然に彼女に手を差し出す。それに支えられながら出てきた彼女は、自分を見つめる夫に気付くや否や俯き、彼の視線から逃れようとした。
「ごめん、悟。あの人たちが来るなら、こんなところにあなたを呼ばなきゃよかった」
縋っていた曽田の腕をぎゅっと握ると梨果は消え入りそうな声で囁いた。
「気にするな。もう昔の話だ。それよりお前、ダンナに先に言うことがあるだろうが」
促されてようやく一真の方を向いた彼女だったが、すぐに気まずそうに目を伏せる。
「ごめん、なさい。披露宴、きっとめちゃくちゃだよね」
「梨果……」
一真は無意識に自分ではなく、悟の腕にすがる彼女を取り返そうとするが、梨果はその手をするりと交わして自力でよたよたと歩き出す。そしてすぐ前にある洗面台に凭れかかるようにして何とかうがいを済ませると、そのままその場から動けなくなってしまった。
「無理するなよって、ほら、言わんこっちゃない」
崩れ落ちそうになっている彼女を支えて周りを見回した曽田が、入り口辺りでざわざわしているのを見て舌打ちした。
どうやらホテルのスタッフが人が立ち入らないよう誘導してくれているようだが、それでも何か騒ぎが起きているのを察知して遠巻きにしている者がいる気配を感じたのだ。

何といってもここは女性用の化粧室。
男性である自分たちは、本来ならば出入り禁止の場に迷い込んだ闖入者だ。
それに気づいた曽田が一真に目配せする。
「場所を変えないと。俺たち何かすごく拙い所にいるみたいだ。ちょっとここを任せてもいいか?俺、こいつを休ませる場所がないか聞いてくるから」
ぐったりとした梨果を一真に渡すと、曽田は気配をうかがいながら入口の方へと向かった。そしてこちらに顔を見せたスタッフと思しき制服の女性と何やら一言二言交わすと、すぐに二人元へと戻って来る。
「一応、控室の方にベッドを入れておいてくれたそうだ。そこまで……歩けそうにないな」
やっと体を起こしているといった風情の梨果を見て曽田が顔を顰める。
「いい。俺が運ぶ」
一真はそう言って半ば強引に梨果を抱き上げると、腰のあたりから長く伸びたトレーンを引きずりながら化粧室を出る。
「ああ、ちょっと待てって。ドレスの裾が引っかかって……あ、柚季さん」
ちょうどその時、廊下の向こうからこちらに向かっていた柚季と杏が梨果たちの姿を認め、後を追いかけてきた。
「すみません、一真さん。曽田さんも」
ぐったりした梨果を控室で寝かせた後、柚季は杏を妹の側に残して一真たちを外に誘い、これまでのあらましを伝える。
「会場がなかなか収まらなかったから、副支配人の提案で、園田のお父様に急遽挨拶をしていただいたの。急に梨果の気分が悪くなって休ませていて、一真さんは側に付き添っているからって。それでほとんどの皆さんは、そのままお食事を続けられているみたい」
それから少し躊躇うようにこう付け加える。
「母と井川さんには帰ってもらったわ。今ここの玄関まで二人を見送ってきたところよ。これ以上梨果を刺激するのは良くないと思って」
「そうですか。すみません、いろいろと気を使って頂いて」
「こちらこそ、ごめんなさいね。梨果が……あの子が母親にまでこんなに過剰反応するとは思っていなかったから」
頭を下げようとする一真を、柚季が慌てて押し止める。
「それじゃ、私と杏はしばらく梨果の側についているから、一真さんは披露宴会場の方をお願いします。それから曽田君も、今日はごめんなさいね、こんなことになって。また梨果の方から後でお詫びさせますから」
「いえ、その必要はないと梨果にお伝え願えませんか。柚季さんもどうかお気になさらず」
そう言って微笑んだ曽田に会釈した柚季がそのまま控室の中へと戻って行くと、後には男二人が残された。
「園田さん、ちょっとお時間を頂けますか?あいつの……梨果のことで、多分あなたが御存知ないと思うことをお話ししておきたいので」
言葉遣いはあくまで丁寧だが、挑戦的な態度の曽田が、外に出ろと顎をしゃくった。
一瞬むっとして断ろうかとも思った一真だったが、梨果のことで、という一言が何とかそれを押し止めた。
二人が向かったのは、チャペルの側に広がる英国風の庭園だった。
春になればここではガーデンウェディングをすることもできるのだと、打ち合わせの際にホテルのスタッフから説明を聞いていたが、真冬の風が吹き抜ける今はまだ花も緑も少なく、何となくさびしい佇まいを呈している。
曽田は先に風よけのフードが付いているベンチに腰を下ろすと、一真にもそこに座るよう促した。
「お察しの通り、俺と梨果は付き合っていたことがある」
出し抜けにそう切り出した曽田は、遠い目をしながらきつく締めていたネクタイの結び目の間に指を入れると、それを軽く緩めた。
「彼女が大学入学と同時に一緒に暮らし始めた。短い間だったけどね」
梨果と父親の確執については、自分の叔母や彼女の姉からも断片的にだが聞いているのである程度の予測はついた。だが、曽田が語ったことは、自分の想像をはるかに超える、理不尽なものだった。
「梨果は決して自分から進んで言わないと思うけど」そう前置きした曽田が学生時代の彼女の身に降りかかった数々の不遇を語り出す。
父親の圧力で曽田との同棲を解消させられた後、梨果は当座の生活費にも事欠くようになっていたらしい。それまでも妨害工作はあったものの、口座を凍結されたのはそれが初めてで、困り果てた彼女はプライドを捨て、生まれて初めて母親に金の無心をした。
「だが、母親は『父親に内緒でそんなことはできない』の一点張りだったみたいで、結局動いてはくれなかった。そんな時、梨果の窮状を知った柚季さんが、自分が祖母から受け取った遺産を周囲に気付かれないように、少しずつ分割して彼女に渡してくれていたそうだ。だが、それも後で父親にバレて、かなりきつく叱責を受けたらしいって、随分と梨果がしょげてたな」
「柚季さんにはいろいろと心配をかけたとは言っていたが、そんなことがあったとは知らなかった」
初めて聞かされたことに、一真も驚きと戸惑いを隠せない。それを見た曽田は小さく肩を竦めて頷いた。
「ああ。梨果はあんまり自分のことをぺらぺらとしゃべるようなヤツじゃないからな。特に他人に弱みを見せるようなことは極端に嫌うから」
その時は柚季の機転で何とか食べられるだけの生活費は調達できたものの、母親から見捨てられたショックと、自分に情けを掛けた姉の立場が悪くなったこと知った梨果は、心理的にかなりのストレスを受けた。そして何より曽田を始めとして自分が係り合いを持った人間が次々と窮地に追い込まれていくのを直に目にしてしまった彼女は、他人と接触することを極端に恐れるようになっていったのだ。
独り暮らしで誰も彼女の行動に目を向けることができなかったこともそれに追い打ちを掛けた。
徐々に精神を病んでいった梨果は段々外出をしなくなり、大学も休みがちになった。曽田が知らない間に、それまでしていたアルバイトをすべて辞めてしまっていた彼女は、友人たちの前に姿を見せることさえなくなってしまったのだ。
心配して何度会いに行っても居留守を使い、出て来ようとはしない梨果に業を煮やした曽田が合鍵を使って強引にアパートの中に入った時、彼はしばらくぶりに会った彼女の変貌ぶりに言葉を失った。
「信じられないけどあいつ、骨と皮でできたミイラみたいな体になっていたんだ」
曽田と一緒に暮らしていた頃の梨果は、少しぽっちゃりしていたくらいだった。それが彼と別れて3ヶ月も経たないうちに、まるで病人のように頬がこけ、げっそりと窶れてしまっていた。体力の落ち切った体では歩くことはおろか立ち上がることさえままならず、トイレにもやっとのことで這って行く有様だ。もう何日風呂に入ってないかも分からず、食事だって最後はいつ何を食べたのかさえ思い出せない様子だった。
何を聞いてもしっかりと答えられず、記憶が混濁し、訳が分からないことをぶつぶつ呟いているだけの梨果の身に危機感を募らせた曽田は、抵抗する彼女をアパートから引きずり出し、すぐに病院へと運び込んだ。
医師の診断では栄養失調と心神の耗弱。
そこで測った体重は、何と38キロを表示した。
「38キロ?」
梨果の身長は160センチ少々、今は50キロを切るくらいの体重だが、それでもかなりのやせぎすだ。それが一時的とはいえ40キロを割るくらいにまで落ち込んでいたとは。
さすがに驚いた表情を浮かべた一真に、曽田が苦虫を噛み潰したような顔をした。
「信じられるか?あいつ、たったの3ヶ月で20キロ近くも激やせしたんだぜ」
それまで健康的だった体は見る影もなくなり、判で押したように規則正しかった生理も完全に止まってしまった。もちろん曽田には知る由もないが、今の彼女の生理不順はその時の名残でもあった。
しばらく病院で治療を受けた後、彼女の身柄は曽田とその母親が引き取った。
最初は何を聞いてもだんまりを決め込んで答えないか、さもなくば、ちぐはぐなことを言っていた梨果だが、落ち着いてくると同時に、彼には少しずつだが自分の身に起きた事を断片的に語り始め、そこでやっと彼も彼女がここまで精神的に追い込まれた理由を知ることができた、というわけだった。
「あれを境に梨果は親と家を完全に切り捨てたんだと思う。家がらみの柵を極端に嫌うのはそれが原因だろうな」
その後も就職の際には同じような事態に直面した梨果だったが、彼女は何とか実家の干渉をすり抜けた。以前に比べて精神的には格段に強くなったという自負がある彼女だが、今回はそれが効かなかったようだ。
「とにかく、これからも梨果と一緒にいようと思うなら、彼女のメンタルの部分も十分に注意してやってくれ。でないとあいつ、いつか本当に壊れてしまうような気がする。自分で考えているほど強くはないんだよ、彼女は」
「だが、梨果は……」
何か言いかけた一真を遮るように、遠くから二人を呼ぶ声が聞こえてきた。
「一真さん、曽田さん」
声がした方に振り向いた二人は、そこに杏の姿を認めると、同時に立ち上がった。
「大変なの、梨果姉さまが」
「梨果が、どうかしたのか?」
問いかけてきた一真に、駆けてきた来た杏が息を切らしながら頷いた。
「一人でいなくなっちゃったの、控室から。今、柚季姉さま達が探してるわ」




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