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Chapter T

シンデレラは眠れない  15


「奥さん?」
駆け付けた時、救急外来の廊下にあったのは社長の妻の姿だけだった。梨果に気付いた彼女が椅子から立ち上がる。
「梨果ちゃん、ごめんなさいね。お休み中なのに」
「いえ、それより社長は?」
「今診察を受けているところ。もう少ししたら、私も先生に呼ばれると思うんだけど」
「どんな具合なんですか?」
「私もよく分からないの。ただ、急に苦しいとか言って胸を押さえてその場にうずくまってしまって……」
「心臓……ですか?」
「多分そうじゃないかと。ただ、ウチの人は今までにこんなことは一度もなかったのよ。だから私も動転しちゃってね。救急車を呼んだの」

早朝の電話は梨果の勤める会社の社長の妻からのもので、内容は社長の武原が倒れ、入院するかもしれないので、今日予定されている工場の機械の点検作業に立ち会ってもらえないかという依頼だった。
二つ返事で了承した梨果だったが詳しい状況が分からず、居てもたってもいられずに会社に行く前に病院に駆けつけてきたのだ。
「梨果?」
車を駐車場に入れたために遅れて来た一真は立ち上がった社長の妻に軽く会釈すると梨果の隣に腰を下ろした。
「今日は彼も休みだったから、ここまで送ってもらったんです。電車だと時間がかかるので」
「まぁ、すみません。だんなさんまで引っ張り出してしまって」
恐縮する夫人に、一真は首を振った。
「いいえ、お安い御用ですよ。それで、社長は?」
「まだ分からないみたいなの」
「そうか」
一真は不安そうな梨果の肩を抱くと、武原がいると思しきドアの方に目をやった。
やがて医師に呼ばれた妻が診察室に入ったと思ったらすぐに出て来た
「意識はちゃんとあって、受け答えもしていたしそんなに心配ないと思うわ。まだこれからいろいろと検査があるみたい。説明を受けたりして時間がかかりそうだから、梨果ちゃん、悪いけど工場の方をお願いね」
「分かりました。何かあったら携帯の方へ連絡を入れて下さい」
診察室に戻って行く社長の妻を見送った梨果は、一真と一緒に出口へと向かう。
駐車場で車に乗り込んだ彼女はほっと小さく息を吐いた。
「大事にならなければいいんだけど」
「社長って何か持病持ちなのか?」
ハンドルを握る一真の問いに、梨果は分からないと首を振った。
「毎年受けている健康診断では異常はないって本人は言ってたけどね。ただ、タバコを止めた方がいいって、ずっとお医者さんからは言われていたみたい」
社長の妻が喫煙を気に掛けるようになったのは、それが切欠だったと聞いている。
梨果自身も決して体に良いものではないと分かっているからできることなら止めたい、それが無理なら本数を減らして……とは考えている。ただ、自分にとってのタバコは安定剤みたいなものだと思うとなかなか実行に踏み切れないのだ。
「お昼までに用事を済ませて、それから……病院に行ってくるから」
「それなら車で送ってやるよ」
「でも……」
「それまで近くで時間を潰している」
「分かったわ。ありがとう」
彼がまだ本心から納得していないことは感じていたが、それでも梨果の心情を優先してくれる。それが嬉しく思えると同時に、彼の気遣いが辛かった。
自分のような妻を持たなければ、彼もこんな割り切れない気持ちになることもなかったのだと思うと、申し訳ない思いで一杯になる。


会社の前で車から降ろしてもらい、一真に帰りの時間を告げると、梨果は独り工場を開け、準備に取り掛かった。
出入りの業者とは長い付き合いなので特段問題もなく、点検と補修は完了する。
しかしその間も梨果はどこか上の空で、何度もクリップボードを持ったままぼんやりとしている自分に気づき慌てた。
そして午前の診察時間ぎりぎりに、探したレディス・クリニックに駆け込んだ彼女は、問診を受け、目的の薬を渡された。
医師からは「この避妊法は絶対とは言えない。それも時間が経てば経つほど失敗する確率も上がっていく」ということを聞かされた梨果は、受付で渡された薬が入った袋をぎゅっと胸に抱きしめた。

そこまでのリスクを承知で、こんなもやもやした気持ちでこれを使う必要があるの?
でも、もしもこれで少しでも将来への不安が拭えるのなら、やっておく意味はあるんじゃない?
そんな自問自答を繰り返しながら、梨果は湧き出してくる自分の迷いに無理やり蓋をしようとする。

そんな彼女の横を、今日が退院だろうか、生まれたばかりの赤ん坊を抱いた女性が家族と一緒に通り過ぎた。
その幸せそうな顔を見た彼女は、訳もなく切なくなり、思わずその母子から顔を背けた。
―― やっぱり私には無理。
俯いたままその家族が出て行くのをやり過ごした梨果は、薬をバッグに仕舞うとクリニックを後にした。
駐車場で待っていた一真は彼女が虚ろな目をしているのに気付くと車を降りてきて、顔色が悪い梨果を気遣うようにのぞきこむ。
「大丈夫か?」
「ええ……薬は貰ってきたわ」
「そうか」
彼はそれだけ言うと助手席のドアを開け、彼女に乗るように促す。
そこからマンションまで、二人は一言も言葉を交わさないまま、家路についたのだった。



それからすぐに式の日取りが決まり、二人は結婚式の準備に追われた。
予定の2月半ばまではひと月ちょっと。
休日はもちろんのこと、平日も夜遅くまでいろいろなことを決めなくてはならなくなった梨果は、仕事と家事と式のことで毎日忙殺されていた。
検査の結果武原の心臓に疾患が見つかり、手術を受けることになったが、彼自身は至って元気そのもので、長引く入院生活に退屈している様子だ。
ただ、式までに退院できるめどが立たないせいで、結婚式に行くことができないことを武原も妻もとても残念がっている。
いよいよ自分の側の招待客の人数が片手になってしまったと苦笑いした梨果だったが、こればかりは仕方がないと諦めた。
時間が圧していることもあり、式自体もかなりの部分姉や一真の両親に頼り切りになった部分があって、実際どうなっているのか、主役の梨果でさえすべてを把握しきれていないのが悩ましいところだった。
「いいのかな、こんなので」
まだ空欄もある披露宴の席次表を見ながら、梨果はぽつりと呟いた。
すべてを自分たちで賄いきれないのだから、仕方がないとは思う。しかしそれでも人を招いてのことにこれだけ穴があると不安は拭いきれない。
挙式まであと一週間あまりだというのに、昨日やっと衣裳が決まったばかりだ。
流れ作業で決まって行く事柄に何か釈然としないものを感じながら、それでも梨果は何かに追われるようにしてその日を迎えることとなるのだった。




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