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Chapter T

シンデレラは眠れない  14


少し前に姉の柚季は職を見つけていた。
それは来春オープン予定の、あるホテルの敷地内に併設された結婚式用のチャペルでのオルガン演奏という仕事だった。
玄人はだしの姉のピアノ歴は三十年近くにもなるだろうか。
三姉妹の中で一番音楽に造詣が深く、またそれを好んで嗜んだのは彼女だけで、梨果と妹の杏はどちらかといえば母親の意向で嫌々ながらやらされていた習い事といった感じだった。
大学在学中に婚約をし、卒業後すぐに結婚した柚季は職に就いたことがなく、もちろんこれといった実務の経験もまったくない。離婚後も経済的に不自由がなかったせいか、実家に戻って来てからもその生活スタイルは変わらなかったのだ。
当初はそんな姉が遂に働くという意欲を持ち、外に目を向け始めたことを素直に喜んだ梨果だったが、まさかそのことが派生してこういった形で自分の身に降りかかってくるとは夢にも思っていなかった。

「紹介キャンペーン……ですか?」
一真の問いに柚季はにっこりと微笑みながら頷いた。
「ええ。バンケット・スタッフはホテルの宴会で慣れているけれど、挙式の方は、私も含めて未経験者が何人かいるの。それで、3月にサービスがスタートする前に予行演習がてら、何組かのお式をお値打ちにさせて頂こうということになって。知り合いを紹介することになったのよ。もちろん、スタッフもかなり厳しく訓練されているからレベルが低いとかそういうことはないわ。ただ、どうしても場数を踏まないと分からないことも出てくるって、支配人が」
「支配人?」
「ええ。今はまだ、ホテルの支配人がブライダルの部門のチーフを兼任しているの。いずれは独立させたいという会社の意向らしいけれど、そのあたりは私も詳しくは知らないのよ」
どうやらホテル側はスタッフの仕上がり具合を最終確認するために、リハーサルも兼ねた挙式に協力するカップルを探していたらしい。そこで柚季が白羽の矢を立てたのが、3ヶ月ほど前に結婚したばかりの妹の梨果とその夫である一真だったというわけだ。
「会場使用料やお式、それに貸し衣装はサービスで、ホテルでの披露宴の食事代だけ自己負担になるの。招待客は50名までの制限付きだけど、かなりお値打ちだと思うわ。
披露宴会場となるのは、近年ある企業に買収された老舗のホテルだ。格式を重んじる各界の重鎮たちが挙って贔屓にしていた頃そのままのサービスが売りなのに加え、新たな資本の注入でより広い階層にも人気が出たことから経営を多角化、トータルブライダルの産業に参入したのだ。
その手始めがホテル直営の、結婚式専用チャペルの併設だった。

「慣れていないから多少のもたつきはあるかもしれないけど、それでも悪い条件ではないと思うのよ。それに私もオープニングスタッフの一人として、多少なりとも貢献できればいいなと思って。どうかしら?」
正直なところをいえば、梨果はかなり迷っていた。
できることなら姉の顔を立ててあげたいとは思う。そうすることで、会社という組織の中に初めて入った柚季の立場が少しでも良くなるのなら、協力することも吝かではない。
しかし、いつまで続くかも分からないこの結婚を公にし、あからさまに肯定する行為には躊躇いがあった。
「ああ、そうなんですね。実は俺の方も親や兄弟たちから、せっつかれてはいるんですよ」
梨果が返答を迷っている隣で、一真が驚くべきことを口にする。
彼女は知らなかったが、二人で正月に彼の実家に行った時、両親からその件の打診があったのだそうだ。
「せめて親戚に対してくらい、顔見せを兼ねた披露宴をやってはどうかと言われましてね。両親の実家がそれぞれ田舎にあるもので、そのあたりはわりと煩いらしくて」
その時には梨果の心情を慮って、考えてみるとしか返答しなかった。しかし、彼女の親族の側からこういう話を持ちかけられて、尚且つ本人にその気があるのならば、ちゃんとした場を設けて互いを親族や知人に紹介することもよいだろう。
「そんなことを言われてたなんて、教えてくれなかったじゃない」
梨果は憮然とした顔で一真を見つめた。
「お前にそんなこと言っても『やりたくない』の一言で片づけちまうだけだろう」
「そりゃそうだけど」
「それとも何か?大々的に結婚式をやりたかったとでも?」
「そんなことはないけど……」
彼女にしては珍しくはっきりと決断できない様子を見た柚季がダメを押す。
「ほら、親族だけなら小ぢんまりとすればいいんだから、50人分もあれば十分じゃない。ウチの方は元から親戚が少ないんだし」
「でも……」
「だったら披露宴なんて堅苦しいことを考えずに、内輪の宴会だと思えばいいじゃないか。どうだ?梨果。いい機会だから、やらないか?」
「一真さんもこういっておられることだし、どう?」
姉と夫はかなり乗り気で、すでに決定ということになっているらしい。
彼らを見て絶望的な顔をした姉に、黙って話を聞いていた杏が同情の笑みを向けた。
「それなら早速明日にでもチーフに話を伝えてみる。若干細かい打ち合わせが必要になるけどあまり時間もないことだし、ある程度は任せてくれると助かるわ」
すっかりその気になっている姉に、彼女はため息まじりの返答をする。
「頼むわ。仕事はそうそう休めないから」
「衣装合わせだけは本人が来てちょうだいね。あ、これは一真さんも同様よ。」
いつになく熱心な姉を見て、梨果は抵抗を諦めた。今まで散々迷惑を掛けた妹を、その度に庇ってくれた柚季に一つくらい恩返しをすることも悪くはないだろう。
「分かりました」
一真もそう答えると、早速空いている週末を確認し始める。彼の方も当分海外出張はないということで、すぐに打ち合わせの予定は決まったのだった。



「本当に良かったのか?」
その夜、ベッドの中で彼女を引き寄せた一真が問う。
「だって今さら嫌だなんて言えないじゃない?姉さんもあんなに乗り気だし」
「だが、実際に式を挙げるのは俺たちなんだぜ」
パジャマの裾から忍び込んできた手に脇腹を撫でられ、梨果が吐息を漏らす。
「だから言ったでしょう。お金は自分で出すって」
結婚式の費用に関しては、折半すると言った梨果に対して、互いに招待した人数で割ることを提案したのは一真の方だった。というのも彼の方は親族だけでも最低30人くらいになってしまう。対する梨果の側は招待したい親族は姉妹だけ。それに近しい知人として学生時代の友人や今の勤め先の社長夫妻を入れても片手で余る程度にしかならないからだ。
あまりにもバランスが悪いがこればかりは仕方がないし、そのあたりは一真も承知していて、敢えて自分の負担分を彼女に負わせるようなことはしないよう配慮したためだ。
当初は梨果の負担する部分も、話を持ちかけた柚季が出すと申し出ていたのだが、彼女はそれを断り、貯金を切り崩すと言い張った。それは姉と同居する両親の干渉を防ぐためでもあり、また自分が自らの意思で式を挙げるのだという、彼女なりの決断の証でもあった。
「ならばいいが。無理してるんじゃないかと心配する」
こんなことはベッドで交わす睦言じゃないなと言いつつ、彼は指と唇で充分解した場所にゆっくりと押し入ってくる。
梨果の方も身体の力を抜き、彼の動きにそって自分の感じる場所へと彼を導く。
最初は何となく抵抗があった彼とのセックスも、今では当たり前のように彼と体を繋げているのだから不思議だ。だが、それは夫婦だから義務として求めに応じているというのではなく、互いを理解していく上での一つの手段として、これが有効であると自分も納得しているからだ。
赤の他人の男女が、感情的な繋がりもないままに、夫婦という名のもとに同じ屋根の下で暮らす。
「結婚」というとどうしても恋愛感情が基本になっているように思われがちだが、実はこういう形の夫婦も世の中にはいるのだということを彼女は改めて実感した。
胸を焦がす恋慕も身悶えするほどの情熱もない相手と、ただ一緒にいることで築ける静かな関係は、必要以上に他人にかかわらないことで自らを守ってきた彼女にとっては心地よいものだ。ただ、これがいつまで続くのかが不確定なだけに、彼にすべてを委ねることはできないし、してはならないとも思った。

「ベッドの中で最中に考え事とは、余裕があるな」
注意が散漫になり、行為に集中していない梨果の意識をこちらに戻そうと、一真はいつも以上に執拗に彼女の弱い場所を攻める。
気を抜いていたところを激しく穿たれた彼女は、彼を内に留めたままで意図せず達し、激しく痙攣した。
不意打ちを受けた一真が慌てて体を引こうとするも、彼女はそれを許さないといわんばかりに手足で彼自身を捕えて締め上げる。
「おい、ちょっと待て。あっ、くそっ」
引き絞られた彼が耐え切れず、膜越しに熱を吐き出す。その後にやっと彼女の中から解放された一真は引きずり出した自信を見て顔を顰めた。
「しまった」
「どうかしたの?」
いつもと違う彼の様子に、気怠そうにベッドにうつ伏していた梨果も顔を上げる。
「ゴムが裂けてる。中に出ちまったかもしれないな」
「えっ?」
驚いて起き上がった梨果だが、それから何をどうすればよいのかが分からず、ただ呆然とした表情で彼の方を見ていた。
「どうしよう……」
「手だてがないわけじゃないんだが。アフターピルを使うとか」
モーニングアフターピルのことは梨果も知っていた。
避妊に失敗した際に緊急の処置として用いるもので、婦人科等で処方してもらえると聞いたことがあるが、もちろん自身がそれを使ったことはない。
「今は危ない時期なのか?」
「分からない。いつも不順だから、どこが危険日なのかはっきりと分からないのよ。だから念のため明日……病院を探して行ってくるわ」
「このまま、自然に任せるって言う選択肢はないのか?」
一真はそういうと、蒼白になっている彼女を胸に抱き寄せた。
「だって……」
これでもしも予定外の妊娠をしてしまったら、彼女の人生設計は根本から覆されてしまう。それを考えると恐ろしさが先に立った。
「分かっている。俺が悪かった。こんな不注意なことになったのは俺のせいだからな」
小刻みに震えながら弱々しく首を振る梨果の背を撫でながら、一真は諦めの滲んだため息をついた。
「無理強いはしないができることなら……いや、どうするかはお前に任せるよ、後で後悔なんかさせたくないからな」



眠れないままに迎えた翌朝。
梨果は早い時間にベッドを出ると朝食の準備をする。気分の問題か、いつもより重く感じる体を何とか動かしながらコーヒーメーカーをセットし、サラダを作り始めた。
今日は午前中にどこかの婦人科を受診しなくてはならない。健康診断以外では縁のない科目だけに、どこにそれがあるのか皆目見当がつかなかったが、近い場所をネットで探して行くつもりだった。
ところが一真が起き出して来る前に検索してしまおうと彼女がパソコンを立ち上げた途端、滅多にかかってくることがない家の電話が鳴り始めた。
「誰だろう、こんな時間に」
見ればリビングの時計はまだ6時半になったばかりだ。
「はい。園田でございます。はい。えっ、なんですって?」
訝しみながら電話に出た梨果の耳に飛び込んできたのは、俄かには信じられないような知らせだった。




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