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Chapter T

シンデレラは眠れない  11


こうして始まった二人の新生活もすでに3ヶ月ほどになる。
その間にも一真は仕事で二度海外に出かけ、現在は三度目の出張中だ。今回は期間が長く、ほぼひと月近く家を空けることになるのが予め分かっていたため、梨果は今、自分が借りているワンルームマンションに戻り、そこから仕事に通っていた。

結婚してから一緒に過ごした時間は実質ひと月にも満たないくらいだが、それでもその暮らしに慣れると彼がいない生活に寂しさを感じる。
食料品の買い物に行っても何気なく二人分買い込んだり、一真の好物を見つけると、つい手に取ってしまう自分に呆れて笑ってしまうこともある。洗濯物だって自分の分だけだとすぐに済んでしまうし、掃除もそんなに頻繁にはしなくてもよい。
彼と知り合うまで長い間一人暮らしをしていた梨果には慣れているはずのこれら一つ一つが、どうにも侘しく思えてしまうから不思議だ。
剰え彼女は、毎夜眠る時に側に誰かの体温がないことがこんなにも心許無いことだということに気付いてしまった。
ずっと一人でいたならば、決して感じることはなかったであろう空虚さに苛まれながら、彼女は己の心の脆弱さを嘆く。

こんな気持ち、できれば気づきたくなかった。

誰にも頼らないと決めた時からずっと、一人で生きていく術を身に着けてきたつもりだった。それは経済的なことだけでなく、メンタルな面でも同様だ。彼女が誰かに依存することが後々どれだけ相手の負担となり、且つ自分にとっての弱みとなるかは、学生時代に嫌というほど教えられたはずだった。
今まではそのリスクを回避することで何とか自立の道を確保してきた梨果だが、彼女とて精神的には決してタフな部類の人間ではない。その証拠が長い間彼女を悩ませ続けている「不眠症」だった。
今でこそある程度薬で自己コントロールできるようになったが、最初はこの症状を自覚することさえなかった。もしもあの時、「彼」が梨果の異変に気づいてくれていなかったら、今頃は取り返しがつかない状態に陥っていたかもしれないと思うと恐ろしささえ感じる。

「彼」は学生時代の梨果の最初の恋人だった。
当時、一つ年上の彼は地元に家があるにもかかわらずアパートで独り暮らしをしていた。親の反対を押し切って家を飛び出した梨果は、大学に入ると同時に彼の下に転がり込み、そこから俄か同棲生活を始めたのだ。
だが、所詮ままごとのような生活は長くは続かなかった。
別れた表向きの原因は、二人の間の価値観の相違ということになっている。
若さゆえに相手に譲るということも許すということも容易にできず、自己主張をぶつけ合うだけの男女が同じ屋根の下で一緒に暮らすことに息苦しさを感じたのは確かだが、本当の理由は別のところにあった。
それは梨果の実家である桐島家からの干渉だ。
当時の両親は何としても娘を家に連れ戻そうと躍起になっていて、あらゆる手段を用いて彼女に圧力を掛けてきた。そんな時に彼らが目を付けたのが、まだ自立しきれていない彼女に対してなにくれとなく面倒をみていた彼とその母親の存在だったのだ。
地元で老舗の料亭を営んでいた彼の母親は、息子のところに半ば強引に居着いた、お荷物状態の梨果をかわいがってくれた。アルバイトを探しているというと、顔が利くカフェのオーナーを紹介してくれたり、大学が長期の休みになっても帰る場所のない彼女を家に呼んで泊めてくれたりもした。
だが、その頃から少しずつ彼女の店の経営が悪化し始めた。今まで常連だった客たちの足が遠のき、従業員も次々と店を辞めていく。聞くところによると、どうやらここ以上に条件の良い店が同じ市内にでき、皆そこに引き抜かれて行ったのだということだ。
客たちも多くがそちらに流れ、料亭は一時、営業が危ぶまれるような事態にまで陥った。そのせいで彼は生活費を浮かせるためにアパートを引き払い、実家に戻ることにしたのだ。当然彼と同居していた梨果も一緒にどうかという話が出たが、彼女はそれを断り、彼からアパートの名義だけを借り受けた。
それは自分がかかわることで「彼」本人だけでなく、彼の家族までもゴタゴタに巻き込むことになると彼女が察したからだ。
この件に裏で桐島が関わっていることは容易に推測できた。というのも彼女は予め実家からそのような脅しを受けていた。
いくらあの父でも、まさかそこまでするはずがない。
そう高をくくっていた梨果は、まだ世間知らずの甘ちゃんだったと言わざるを得なかった。
こうして同棲は解消したものの、その後結局彼の実家の料亭は店を畳むこととなった。母親が心労で倒れ、表を切り回せる人間が誰もいなくなったためだ。
せめてもの救いは、代々引き継がれてきた土地建物等の資産を所有していたために何とか食べていく分には困らないと聞かされたことだろうか。

それを知らされた時、梨果は自らの呵責の念に苦しんだ。
自分が係らったばかりに他人まで不幸に巻き込んでしまったという辛い現実が、まだ二十歳にもならない彼女の上に重く圧し掛かった。
それまでは何があっても自分さえしっかりしていれば何とか乗り越えられると信じて疑わなかった梨果に、人生最初で最悪の苦痛と屈辱を与えたのが他ならぬ自分の両親と実家だったという事実に彼女は打ちのめされた。
自分が安易に何かをすればその害が思わぬ方面にまで及ぶという事態は、彼女を混乱させ委縮させた。そしてそれは彼女の精神面にも十分過ぎるほど深刻な影響を与えたのだ。

この一件で実家の、否、父親のやり口と本気を知った彼女は、その後周囲と個人的な繋がりを持つことを極力避けるようになった。
それからも実家からの不当な干渉は続き、一時はアルバイト代の入る銀行口座を凍結されたりして、手元にまったく現金がないという状況に陥ったことさえある。なにぶんにも、その頃の梨果はまだ未成年で、世間的にはどうしても親の側に都合よく扱われてしまうことが多かったからだ。
世の中すべてを敵に回したように感じた梨果は、可能な限り外に出ず、他人と接触しなくなった。そうしなければいつか誰かに迷惑が掛かる、そんな風に本気で思い込んだ彼女は一人アパートに引き籠ってしまう。そしてそのうちに、常に誰かに行動を見張られているのではないかという被害妄想まで起こすようになったのだ。
そんな生活をしばらく続けているうち、徐々に彼女の心と体は蝕まれていった。気が付けば何日も食べ物を口にしておらず、かといって何を食べたいとも思わない。そのうち食べなくても空腹さえ感じなくなっていった。無気力にただベッドの上でごろごろするばかりで、大学にもいかなくなり講義にも出ない日々が続いた。
あの時、そんな彼女を心配して様子を見に来た彼に見つけられなければ、今頃自分がどうなっていたかは分からない。
ドアに鍵を掛けたまま誰とも会おうとしない彼女の異変に気付いた彼は合鍵を使って強引に部屋に入って来た。あの時の彼の愕然とした表情を、梨果は今でも忘れることができない。
彼によって梨果はすぐにアパートから連れ出され、実家に連れて行かれた。そこで久しぶりに会った彼の母親も、彼女を一目見るなり顔色を変えたのだから、あの時の自分は余程ひどい状態だったのだろう。
それからしばらく彼の実家に厄介になったのだが、最初は満足に食べることも眠ることもできなかった。思考が働いていないせいか会話もかみ合わず、問われたことに的確に答えることができない自分に戸惑った。
その様子を見ていた彼に、無理やり引きずるようにして連れて行かれた先が心療内科だったのだ。
それから梨果は彼の実家で世話になりながら心身の回復に努めた。
急激に減り過ぎた体重は結局元には戻らなかったが、それでも何とか自分からものを食べようと思うようになるまでには実に二ヶ月近くの時間を要した。こうしてどうにか身の回りのことが自分でできるようになってから、彼女はようやくアパートに戻ることができたのだ。当然のごとく「彼」とその母親には引き留められたが、また彼らに迷惑がかかるかもしれないと思うとこれ以上そこに居続けることはできなかった。


「ふぅ」
昼休憩中の梨果は、喫煙場所でぼんやりとタバコを燻らせながらため息をつく。
こんな昔のことを思い出すなんて、いつ以来だろう。あのことは、できればもう振り返りたくない過去、いわゆる自分の中の黒歴史だ。
「新婚のくせに何ため息ついてやがる?ん?何だ、ダンナが恋しくなったのか」
そう言って揶揄するのはもちろん社長の武原だ。
「違いますよ、といってもどうせ信じてもらえないんでしょうから、好きに想像してください」
梨果は半ば諦めたような顔でちらりとそちらに目を遣ると、ぷいと顔を背けた。
結婚してすぐに、一真は彼女の勤め先にも挨拶に来た。その際に武原と話が合ったらしく、忌々しいことに今では彼も社長のお気に入りだった。
「おいおい梨果っぺ、新妻ならそれらしく、もうちっと恥じらいってものを持ったらどうなんだ?そんな不貞腐れた年増女みたいな顔をせずに」
「すみませんね、もうすぐ三十路の年増で」
開き直って、わざとぷはっと下品に煙を吹き出す梨果に、武原もあきれ顔だ。
「それで、ダンナはどうなんだ?今年中に帰って来れそうなのか?」
武原の問いに、「それはこっちが聞きたいくらいよ」と梨果は心の中で毒づいた。
最初は二十日までに帰ると言っていた一真だが、仕事上のトラブルで帰国の予定が伸びていた。今日はもう二十七日、当然の如くクリスマスなどすっ飛ばしたような格好だ。
そんなものを一緒に祝うような甘い関係ではないと分かってはいても、やはり今年も一人で過ごしたクリスマスは、例年にも増して寂しいものとなった。
「ダンナが帰ってきたら、今年は少し早目に、休みに入っていいぞ。うん、そうしろ。いつもいないんだから、ちったぁダンナを労わってやれ」
武原はそう言うとタバコを揉み消して事務所に引き上げて行く。その後ろ姿を見ながら、梨果は苦笑いしつつも感謝の言葉を呟いた。
年末ぎりぎりまで製品を出荷する梨果の会社は例年三十日まで仕事だ。工場のパートさんたちはそれで仕事納めとなるが、事務方の梨果は残務整理と大掃除のために大概は翌日も出勤することになる。
「しかし、本当に帰って来られるのかなぁ。このまま年明けまで……とか」
その可能性はゼロではない。本人もできるだけ早く目途をつけて帰りたいとは言っているが、海外では日本国内のようには簡単に話が運ばないのだそうだ。
「お正月くらい、一緒にのんびりしたいけど」
たとえそう思っていたとしても、寂しいとか早く帰って来てほしいなどとは口が裂けても言えない。頑固で意地っ張りで、かわいげのない自分にはほとほと愛想が尽きる。
梨果は唇を歪めて諦めたように頭を振ると、自分もタバコを吸いがら入れに押し込み、午後からの仕事に戻って行った。



一真から連絡があったのはその日の深夜のことだった。
もう寝ようかと思ってたところに入って来た一通のメール。
『そちら時間の明日の夜に帰国する』
たったそれだけの短い文面を見た梨果は、思わず携帯を抱きしめた。
彼が帰ってくる。
ただそれだけのことなのに、嬉しくてなぜか無性ににどきどきして眠気が吹き飛んでしまった。
その浮かれ具合が自分でもおかしいほどに。
恐らくその時の梨果はまだ自覚していなかったのだ。
彼に対する自分の気持ちの変化を。




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