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Chapter T

シンデレラは眠れない  1


「はぁ?」
その電話は突然掛かって来た。
今日は日曜日。昨日休日出勤をした梨果にとって、1週間ぶりの休みだ。
洗濯や掃除や買い物。山のようにたまった家事はこの際考えないことにして、彼女はとにかくゆっくりと体を休めたかった。
だからわざわざ寝る前に携帯の電源も切っておいたのに、朝っぱらから家電がしつこく鳴りだして止まないのだ。無理やり叩き起こされ、半分朦朧とした頭で出てみると、相手は長らく話もしていない相手だった。となれば不機嫌になるのも当然のことだろう。
『だから、お見合い。あなたにぴったりのお話があるのよ』
掛かってきた電話の相手、こちらの気分などまったく察することのない、空気の読めない母親の言葉に梨果は思わず頭を抱えそうになった。
「見合いって、結婚する気もないのに、なんでそんなバカらしいことをしなくちゃいけないわけ?」
『だってほら、あなたももう来年には三十でしょう?どんどんお見合いの話も少なくなってきているし、そろそろお相手を決める頃合いだと思うのよ。それに、このお話はお父様も乗り気なの。それでぜひあなたに勧めて欲しいって』
「お父様?」
それを聞いた彼女の声が急に冷ややかさを増す。それはもう、周囲の温度が一気に下がったと感じるほどに。
「ほぉ、誰なのそれ。私には『お父様』なんていないと思ったけど。自分の言いなりにならない人間を身一つで家から追い出す極悪非道なオッサンなら一人ばかし心当たりがあるけれどね」
『梨果さんったら、お父様になんてことを……』
それを聞いた母親の声が険を帯びたのを聞いた梨果は、その予想通りの反応に思わずため息をついた。
何十年もの間あの男の身勝手に振り回され続けてきても、この人はまだ、懲りずにあの男に義理立てするつもりなのだ。
まぁ、それも仕方がないのかもしれない。何せ彼女は土壇場で我が子を切り捨て、家と夫を選ぶような人なのだから。
そう思うとつい言わなくても良い一言までつっけんどんに口を衝く。
「だって本当のことじゃない?あの人は自分の利益にならないことは絶対にしないでしょう。会社のためなら実の娘だって平気で売りとばすような男なんだから、この話だってあの人が一枚噛んでいるのなら、何か裏があるに決まってる。もう家の都合で振り回されるのは御免だわ。とにかく、私は一切あなたたちの茶番に付き合うつもりはないから、そんなしょうもないことで二度と連絡してこないで」
電話の向こうで絶句している母親に一気に捲し立てると、彼女はさっさと受話器を戻した。

これでいい。
あの家から与えられるものがなければ、あの人たちから義理立てを強要されることもない。
だから彼女はずっと実家とは距離を置いているのだ。
大学に入ると同時に家を離れてすでに十年以上が経つが、梨果はその間一度も生まれ育った家には戻っていない。今では彼女自身、あの家と完全に縁を切っても良いとさえ思っている。ただ、仲の良い姉と妹とだけはつながっていたいがために、今でも最低限の付き合いを続けているだけだ。
「もう、目が覚めちゃったじゃないの」
元々睡眠に障害を持つ彼女は寝つきが悪く、その上深く長く眠ることができない。今は何とか薬なしでも寝入ることができるまで回復したが、それでもほんの少しのストレスや刺激でたちまち安らかな眠りが妨げられてしまう。
「仕方がない、起きるか」
梨果はのっそりと立ち上がると顔を洗いにキッチンコーナーへと向かった。
ワンルームのマンションにはトイレと小さなユニットバスしかなく、いつも歯磨きや洗顔は部屋の隅に作りつけられたミニキッチンで済ませている。
「しかし、何だかなぁ」
嫌な気分だった。
家を出てこれだけ時間が経っても、まだ自分はこんな些細なことに気を病むことが止められないなんて。
歯ブラシをくわえたままシンクに凭れ、ぼんやりと目を遣った先に見えたのは、姉妹で写った最後の写真だ。
自分の高校の卒業式の日に撮られた写真の姉は大学生、その頃妹はまだ中学生だった。
「十年……か」
長かったようでもあるし、あっという間だったとも思える年月。その間に一体自分は何を見て何を思い、そして何をしてきたのか。
「ま、今さら考えても仕方がないんだけどね」
口を漱ぎ、顔を洗った梨果は嫌な気持ちを振り払うように、タオルで思い切り顔を拭った。
時計の針はやっと八時半を少し回ったところで、小さなベランダからは明るい陽光が差し込んでいる。
「さて、洗濯して掃除して、買い物もしておかないと。また来週も忙しくなるわよ」




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