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 迷いの森 

 Epilogue 



どこか迷いの森に似た雰囲気のある、深い森の側に立つホスピス。
紗耶はそこにいた。

手術が難しく、投薬治療も拒否した彼女は今、自分と向き合いながら残された日々を心静かに過ごしている。
この36年の間には、いろいろなことがあった。
他人から見れば、決して長い人生とはいえないだろうが、それでも彼女なりに精一杯、日々を生きてきたつもりだ。


『ミズ・ユウキ。面会の方が来られていますよ。お通ししてもよいですか?』
ナースセンターからインターフォンで連絡が入る。
『面会?誰かしら?』
『男の方ですよ。名前は秘密だそうです。どうされますか?』

きっとエドワードの、いつもの悪ふざけに違いない。彼以外に自分がここにいることを知っている人間はいないのだから。
『通してください』
そう答えながら、紗耶は訝しく思った。
美優の卒業式に代理での出席を頼んでからまだ数日しか経っていない。
彼はその後アジアを回るスケジュールになっていると聞いていたから、こんなに早く帰ってくるとは思っていなかったのだ。
もしかしたら、予定を早く切り上げて戻ってきたのかもしれない。また彼に心配をかけてしまい、無理をさせたのではないかと自分を不甲斐なく思う。
ここに入ってから、何事につけてもエドワードに頼ることが増えた。彼の思いに応えることができないのに、彼に縋らなければならない自分が情けなかった。


ドアが開く音がして、人が部屋の中に入ってくる気配がする。
「エディ?お帰りなさい」
紗耶はそちらに顔を向けると、無理に笑顔を取り繕った。悲しい顔はできない。彼に無用な心配をかけてしまうから。
「美優には会えた?卒業式には参列できたの?どんな様子だったのか、教えてちょうだい」


圭市はドアの前から動けなかった。
ドクターとの面談で、病状は聞いていたから理解しているつもりだった。
だが、そのあまりに痛々しい様子を目の当たりにした彼は、声を発することさえできなかったのだ。
「エディ?どうしたの?こっちに来て」

確かにこちらに向いている紗耶の目は、既に何も映してはいなかった。
脳に転移した腫瘍は彼女から光を奪っていた。
今では僅かに光源を感じることしかできなくなっているのだ。
エドワードが託された絵に筆を加え、完成させた直後、紗耶は急速に光を失ったという。あの絵が写すものが、彼女にとって最後の風景になったことは間違いなかった。


「ちゃんと見てきてくれたの?あの子は、あの古めかしいケープを掛けていたのかしら?あれは毎年、下級生が上級生のために、丁寧に綻びやほつれを直すの。私もしたのよ」
ふふっと笑う紗耶の目が逸れて、ようやく呪縛を解かれたかのように、圭市は彼女のいる方へと歩き出した。
「私には身につける機会はなかったけれど、一目でいいからそれを着ている美優の姿を見たかったわ」

側まで行くと彼女のやつれ様が一段とよく分かった。
以前は明るく染められていた髪は黒く戻り、その代わりに白いものが目立つようになっていた。元々華奢だった身体はすっかり肉が落ち、手には骨が浮いているのが見えるほどだ。
洗練された実業家としての面影はすでになく、その姿は弥が上にも病気が確実に進行していることをうかがわせる。


「紗耶」
その声に、彼女はびくりと身体を震わせた。
「紗耶、会いたかった」
力強い腕に抱きすくめられながら、彼女は半ば放心したように見えない目を見開いた。
「圭市さん?何で、何であなたがここに…?」
「君が動けないと聞いたから、私の方から来た。それだけのことだ」
「エディ…彼が言ったのね」
「ウォレンには感謝してもしきれないよ。彼のお陰で私はここに来ることができた」

紗耶は無意識に、かさかさに乾いた潤いのない唇を噛んだ。
「あなたには、こんな姿を見せたくなかった。だから誰にも知られないようにここに来たのよ。なのに…」
「だが、私は君の夫だ。妻の苦しみを少しでも軽くしたいと心を砕くことに、君が何の遠慮をする必要がある?
私たちは夫婦だ。家族なんだよ」

「でも…」
彼女はまだ迷っていた。
そう遠くないであろう自分の死の様相が、彼を、そして娘をも苦しみへと引きずり込んでしまうことを恐れたのだ。
そんな紗耶の逡巡を感じとった圭市は、彼女を抱く腕を強める。

「もしも君が生きることを諦めてしまったとしても、私は決して君を一人では逝かせない。最後の瞬間まで、私は君と共にいる。
死が二人を分かつとしても、君が天国に招かれるなら、私の心はその後ろに付き従う。
だが、もしも君が地獄に堕ちるというのなら、私の魂も共に堕ちよう。」

そして彼は、紗耶が心の底から望み、欲した言葉を彼女に捧げる。

「二人はどこまでも一緒だ。愛しているよ、紗耶」



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