BACK/ NEXT / INDEX



 迷いの森 

 第二章   廻る運命の歯車  5 



9月にしては蒸し暑く、どんよりとした空に澱んだ空気が生温かい。
式当日はそんな天気だった。

結婚式は身内のみの参列で、都内の教会で挙げられる。
圭市はすでに彼の両親と共に教会に着いている頃だ。紗耶の父親も別宅から直接会場に向かうことになっている。
新婦である紗耶は自宅で仕度をして教会へ向かい、式後はそのまま披露宴会場に入る予定になっていた。そのため、朝早くからヘアメイクやドレスの着付けの担当者が出入りし、離れは人で溢れかえっていた。

早めにドレスの着付けと準備を済ませた彼女は、時間まで自室で待機させられていた。
予定の時刻には迎えの車が側まで来る手はずになっている。それまでは自室に一人でいたいと言うと、周りの慌しさも手伝ってか、思いのほかすんなりとその希望は叶えられた。



周囲に人気がなくなったのを確認した紗耶は、ドアに鍵をかけ、徐にウエディングドレスのファスナーを引き下ろしてぞんざいに脱ぎ捨てる。そして髪に留めてあったヘッドドレスも毟り取ると、それらを全て手近にあった大型の紙袋に詰め込んだ。
その後、急いで洗面所に駆け込むと、濃い化粧を落としてスプレーでがちがちに固められた髪の毛をお湯ですすいだ。

「よし」
鏡に映るのはいつもの自分だ。けばけばしい化粧や似合わないドレスを嫌々纏うより、よほどこの方がすっきりして見える。
紗耶はちらりと壁に掛かった時計を見上げた。
いつまでこの猶予が続くか分からなかったし、油断はできない。ドレスに響かない婚礼用の小さな下着を替える時間を惜しんでストッキングだけ脱ぐと、そのまま動き易いジーンズとチュニックに着替えた。


自室の2階の窓からそっと下を覗いてみる。
ありがたいことに、さすがに今日は庭には誰もいないようだ。
彼女はドレスを詰めた紙袋と自分のバッグ、それにサンダルを下に投げ下ろすと、屋根伝いに這い、一番着地しやすい場所から地上に飛び降りる。
そして荷物を掴みサンダルを履くと、身を隠すように庭の生垣の後ろに走りこんだ。

最初に離れの裏の林の側にある今は使われていない焼却炉に向かい、紙袋をその中に突っ込む。火をつけて焼くことはできないが、当面ドレスを隠すのにはそれで充分だった。
そのまま林を抜け、屋敷の裏側の小さなくぐり戸を開ける。ここも普段から施錠してあるが、古い錠前は手近な石と木の棒で簡単に根元から壊せた。

あとは住宅街の裏道をひたすら走った。
いつも使う駅へは用心のために行かず、反対側にある一つ先の駅まで足を延ばす。
駅に着き、改札を通り、電車に乗った時になって、ようやく紗耶はほっと胸をなでおろした。
これで何とか今日一日を乗り切れる。そう思うと自然と顔に笑みが浮かぶ。
そして見るともなく、窓の外を流れる景色に目をやりながら、ふと思った。

別荘へ、森の別荘へ行ってみようか。

最初から行き先など決めていなかった。紗耶だって、このままずっと逃げ続けられるとは思っていない。だが、少なくとも今日の式と披露宴を潰すための時間稼ぎにはなるだろう。
そして、それは彼女にできる最大の意思表示となるはずだ。



あの話を立ち聞きした翌日から、彼女は圭市に話がしたいと迫り、何度も電話をしたが、彼の方はその都度多忙を理由に適当にそれを切り上げた。
一度だけ、押しかけた母屋で直接話をする機会があったのだが、その時も話のさわりを切り出しただけで「私に任せてくれればいい」の一点張りで、彼女の話を聞こうとさえしない。
今までの彼ならば、そんなことはしなかったはずだ。やはりこの前の父親の話が影響しているのかと思うと、紗耶はますます暗い気持ちになった。
その結果が今日の結婚式のすっぽかしだ。

彼女にしても、本心では突然こんな衝動的な、子供っぽい行動に出たくはなかった。できればちゃんと腹を割って話し合い、解決したいというのが正直なところだったので、自分なりに努力はしたつもりだ。
しかし、その思いは結局彼には届かなかった。
所詮、圭市は父親の子飼いの部下なのだ。
今までは表の面しか見せていなかったが、裏では彼も父親と同じことをやっているのかもしれない。悲しいかな、彼女にはその虚実を見極めるだけのスキルがない。

だからこんなに簡単に騙されてしまったんだわ。

ちょっと優しくされたからといって、簡単にガードを下げてしまった自分を戒めた。
今まで本当の意味で誰からも必要とされたことがない彼女は、親身な甘言に弱い。今回のことは、改めて彼女にそれを痛感させた。

しかし、騙したからといって、彼だけにすべての責任があるとは言えない。
自分ももっと前からしっかりと意見を述べて、彼と真正面から向き合わなくてはいけなかったのに、それを拒んで現実から目を背け続けた。
だから彼の作る虚像が見抜けなかったのだ。

できることならば、最後に圭市とちゃんとした話し合いをして、互いに納得した上でこの話を終わらせたかった。
けれど、最後まで彼は紗耶にその機会を与えてくれなかった。
そして遂には、彼に自分の気持ちを訴えたところで納得してはくれないだろうと自分に言い聞かせ、諦めざるを得なかった。
紗耶は電車の窓ガラスに額をつけながら、自らの心に問いかける。
もっと自分が弁舌に長けていれば、彼を説き伏せることができたのだろうか。
もっとゆっくりと二人の心のうちを曝け出す時間があれば、互いの思い違いを正していくことができたかのだろうか。
もっと自分が大人だったら…彼と同等に対峙して、愛情を育むこともできたのだろうか。
もしも、もっと…。




その頃、屋敷では大騒ぎになっていた。
迎えの車の到着に紗耶を呼びに行った使用人が、部屋に彼女の姿が見えないことにようやく気付いたのだ。
すぐにあちこちに連絡が行き、皆が手分けをして探し始めたが、そのとき当の本人は既に電車の中だったのだから、見つかるはずもない。

急遽屋敷に戻ってきた圭市と宗一朗は、建物内をくまなく探させた。
「あの格好で遠くに行けるはずがない。早く探し出せ」
宗一朗の怒号に、使用人たちはおろおろするばかりだ。すでに結婚式の開始時刻は過ぎていた。

「旦那様、う、裏の焼却炉にこれが…」
宗一朗の前に使用人が持って来たのは、汚れて皺になったドレスとチュール、それに萎れたブーケだった。

「社長、彼女はもうここを出ていますよ。多分前からそのつもりで、いろいろと準備をしていたのでしょう」
圭市は、冷めた目で灰まみれになり薄汚れたドレスを見つめた。

諸事情で衣装合わせが遅れ、式までに時間がなく完全なオーダーメイドは難しいと言われたため、彼女のウエディングドレスはセミオーダーだ。
飾り気のないデザインのオフホワイト。彼女はこれを選ぶ時、「シンプルで一番価格が安いもの」という条件を出したという。
「別にこだわりがあるわけではないから」とは言い添えていたが、店員はかなり怪訝そうな顔をしたらしい。資産家の一人娘が結婚するというのに、飾り気のない安価なドレスを選ぶことが信じられなかったのだろう。
その後、試着して身に合えば何でも良いと、彼女は最初に着たドレスをオーダーのベースに選んだ。
その時も、紗耶は「これでいいわ」の一言であっさりと決めてしまったと聞いている。

「あの倹しいドレスと比べたら、そのあたりの結婚式場の貸衣装の方がよっぽど豪華ですよ」
衣装選びに付き添った房枝がそうこぼしていた。ヴェールもブーケも一番シンプルで色味のないものに決めたのだが、房枝に言わせるとドレスが地味過ぎて他が浮いて見えるため、それしか合わせられなかったのだという。

女性ならば大概は式に着るドレスは時間をかけて、喜々として選ぶものだと聞いていた。
紗耶だって若い女性だ。いくらお仕着せのような結婚でも、それくらいは楽しむだろうとばかり思っていたのだが、彼女はそれさえも放棄していた。
それほどまでにこの結婚に希望や熱意が持てないのかと、その場にいた房枝だけでなく、後で様子を聞いた圭市までもが失望を感じたほどだ。

だが、今にして思えば、紗耶は意識的に捨てても惜しくないドレスを選んでいたのかもしれない。


こうなることを予測して。




≪BACK / NEXT≫ / この小説TOP へ
HOME