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 迷いの森 

 第二章   廻る運命の歯車  3 



紗耶の不安を他所に、周囲は着々と結婚の準備を進めていった。
特に房枝はその陣頭指揮を執り、新婚夫妻の新たな住居となる結城家の母屋を彼らの生活様式に合わせて改装していく作業に追われているようだった。

「本当に良いご縁がありましたね」
房枝は圭市が気に入ったようで、何かといえば彼を引き合いに出してきて褒め上げる。
「そうね」
紗耶の声は相変わらず暗く、抑揚がない。房枝はそれに気付かない振りで、離れにあった衣類を手早くケースに詰めていた。
「あと数日で花嫁になられる方がそんなに気落ちしてどうしましょう。もっと晴れやかなお顔をなさいませ」
「便宜的に、適当に宛がわれた相手と仕方なく結婚することが嬉しい人間が、世の中にどれほどいると思って?」
房枝の小言を聞いた紗耶が、憂鬱そうに溜息を漏らす。
「圭市様のどこがお気に召さないのでしょうね?
確かにお嬢様から見ればお年は少し離れていますが、素敵な方だと思いますけれど。ハンサムだし、お優しいし、気遣いも細やかで。その上お仕事も御出来になるのですから、言うことなしのお相手ではありませんか?」
「でも、私が望んでする結婚ではない」

実際、これが一番のネックだった。
最終的に了承したのは紗耶自身だとは言え、この結婚話については始めから終わりまで常に彼女の意思は無視され続けた。厳格で専制的な祖父が生きていた頃でさえ、これほど他人の都合で引きずり回されたことはない。
自分は社会人としての経験もなく、何事においても未熟だという自覚はあるが、ここまで徹底されると自尊心まで失くしてしまいそうだった。

「でも、お受けになったのはお嬢様ご自身でしょう」
「他に選択肢がなかったからよ。仮にこの話を潰しても、いつかまた他のところから同じ様な話が出てくるのは目に見えているでしょう?誰と結婚しても同じなら、できるだけ私の自由が保証される話に乗っただけ」

それに、今のところ圭市が必要以上のモーションを仕掛けてこないのもありがたかった。恋愛感情もなく、一足飛びに結婚に至ってしまった彼との関係には、依然何をするにも戸惑いが先に立つ。
好きだとは言えないが、嫌いとも言えない。
異性と付き合ったことがない紗耶には、何とも微妙な感覚だった。
第一、圭市について、まだそれほど多くを知らないのだ。そんな相手と結婚しなくてはならないなんて、自分でも信じられない。そもそも結婚というのは、当事者間にそれなりの交流があってからなされるものではないのだろうか。
彼に言わせると、先に結婚ありきでも、そのうちに親しみも抱けるようになるということだろうが。
紗耶はまた深い溜息を漏らした。
そのうちに、これも何かの縁と諦めがつき、彼との生活に慣れてくれば、あちらのいうところの『普通一般的な夫婦としての生活』も何とかできるようになるかもしれない。
ただし、それまでに「諦めがつけば」の話だが。



その夜、圭市は珍しく本宅に出向いてきた紗耶の父親、結城宗一朗と書斎で向かい合っていた。
圭市は数日前からこの本宅に引越し、帰宅後は片付けに追われている。
大半の荷物は既にここに移されているが、紗耶本人はまだ離れで生活しているため、今のところ夜間この母屋にいるのは使用人の他には圭市だけだった。

現在の結城家当主である宗一朗は都心に別宅を構えてあり、ここに立ち寄ることは稀だ。元々先代と折り合いが悪かったこともあり、彼にとっては未だここは敷居が高い場所らしい。


「まったく、御大のやることは。死んでなお、己の力を誇示しようというのか」
宗一朗は憤懣やる方ないといった様子だ。
「社長はご存知なかったのですか?」
その憤り様を見ながら、圭市は手にしていた書類を机に投げ置いた。
「この条項だけは御大が死ぬ直前に書き加えさせたらしい。今まで伏せられていたのを、弁護士を脅して無理やり吐き出させた」

彼の怒りの矛先は、机の上にある書類。前の結城家当主の遺言状だ。
半年ほど前に他界した先代は宗一朗の妻の父親、即ち舅にあたるが、彼らの仲はかなり以前から良くなかった。そもそも、宗一朗が結城家に入った時点で、すでに二人の間には亀裂があったのだ。


紗耶の母親は先代の外腹、つまりは愛人の娘だった。正妻である先代の妻に子供がなく、母親は結城家を継ぐべく実子として届けられ、先代夫妻の籍に入った。
当初、子供を引き取ることを渋った妻に先代が出した妥協案は、彼女の親族を娘の婿に迎えるというものだった。
宗一朗は先代の妻の従兄の子にあたる。
話が持ち込まれたとき、まだ宗一朗は小学生。彼の両親は大した考えもなく、前渡の支度金が目当てでこの話に乗った。

長じて宗一朗は結城の傘下に入った。
そして怜悧な事業家となり経営手腕を発揮し始めたが、その際立った能力故に先代に疎んぜられた。古い考えから抜け出せなかった先代が、彼の辣腕ぶりに自らの地位を脅かされることを恐れた、というのが周囲の大方の見方だ。

確かに妻と結婚後、彼が経営の中心となってから事業は格段に広がった。今のグループ規模のほぼ7割は彼が開拓したものだ。
だが、旧態依然とした会社の体質は簡単に変わるものではない。
そのせいで、経営を一手に担いながらも、彼は長い間トップの座に昇りつめることができなかった。先代が最高責任者として社の最高位に居座り続けたためだ。
それが解消されたのは数年前。
先代が体調を崩し、職を退いてからだった。

ようやく名実共にグループのトップとなった宗一朗だが、結城家の地所や財産はまだ舅が握っていた。その中には不動産や会社の株式等、かなり資産価値のあるものもある。
こともあろうに先代は、それを現社長であり、婿でもある宗一朗ではなく、血縁のある唯一の孫娘、紗耶に譲ると遺言していたのだ。

紗耶は現在17歳。
彼女が18歳になった時点で遺言が効力を発揮する。ただし、まだ未成年であることから、成人するまでは、会計士と弁護士の管理の下、外部に委託された機関が運用をし続けるように指示がされていた。
そして晴れて20歳になったら、紗耶自身に資産の管理や処理が一任されるようになっていた。その時の状況で、譲渡や売却するもよし、自分で誰かに信託して運用するもよし、ということになる。
最終的に、先代の遺産は意図的に宗一朗を飛ばして、紗耶とその子孫に向かって流れていくように道筋が付けられていた。

表面的な権力の委譲は先代の死後すぐに開示された遺言で既になされているが、第二の遺言状は来年の春、つまり紗耶が18歳になるまで公開されないよう手配がされていた。狡猾な、いかにも先代らしいやりようだった。


「こうなった以上手段は選ばん。紗耶に子供を産ませろ。それもできるだけ早くに。それでも18歳の誕生日までには間に合わんが、当面の相続名義人をその子にしておけば、子供が成人するまでに次の手が打てる」
「しかし、急にそんなことを言われても、彼女は納得しませんよ。それでなくとも私のことを信用しているとは言えない今の状況で、そんなことを言ったら…」
「無理やりにでも従わせればいい。私があれの母親にしたように、何なら手篭めにしても構わん。周りには私が言い含める。君は言われた通りにやってくれれば、それでいい」

宗一朗のあまりにも突拍子もない話に、圭市は戸惑いの表情を浮かべた。
「しかし、社長。当事者は私と紗耶さんです。そこまで強硬なことを言われても、私としてはお受けしかねます」
「だが、君以外にこれができる人間はおるまい。
君に嫁がせると決めた今となっては、他を探すこともできないしな。君も他の男の子供を自分の妻が産むのは嫌だろう」
宗一朗の信じられないような言葉に、いつもは冷静な圭市も気色ばんだ。
「聞き捨てなりませんね。それは、どういうことでしょうか?」
「あれの腹から出て、こちらに取り込める子供ならば、この際父親は誰でも構わんということだ」


圭市は、怒りのあまり吐き気を覚えた。
よくも平気で、そんなことが言えるものだ。目の前の男は、自分の血の繋がった娘を道具のようにしか思っていないことは明白だった。
確かに経営手腕は抜群で、一緒に仕事をしていく上では比類なき人物かもしれないが、彼には人間味がない。今まではそれには目を瞑ってただ信奉していただけだったが、この一件で上司の本性が見えたような気がした。
しかも妥協を知らないこの男のことだ。今言ったことを本気でやりかねない恐ろしさがある。


外で物音を聞いたような気がした圭市は、瞬時に宗一朗の口と動きを目で封じた。
「社長、ちょっと」
閉まりきっていなかったドアを急いで開け、薄暗い廊下を見渡すが、人の気配はない。

気のせいだったのか?

圭市は訝しみながらも室内に戻り、今度はきっちりとドアを閉める。そして宗一朗の方に向き直った時には、再びいつもの冷静さを取り戻していた。

「では、一つ、こちらの条件も呑んでいただきたい。彼女が無事子供を産んだ暁には、彼女と子供に手出しをなさらないと。
もちろん、遺産の名義は彼女と子供でも、処分はあなたがされればよい。ただし、その後は彼らの生活には一切関らないでいただきたい。どうです?」
「それは構わんよ。あれらをどうこうする必要は、私にはない」
「ご確約いただけますか」
「必要ならば書面にしよう。あとで秘書に届けさせる」



宗一朗を送り出した圭市は、重い溜息をついた。
紗耶が圭市に向ける不信の根源がどこにあるのかが、やっと分かったような気がした。
あの冷酷な父親の下で、彼女は常に策略の駒としての扱いしか受けてこなかったに違いない。
愛情の欠片もない親子関係。
その相手に、人生の一大事を勝手に決められた少女が反発を感じるのは無理からぬことだ。

もっと苛立たしいことに、自分は今までその手先となって彼女を懐柔してきた。
知らなかったとはいえ、紗耶の気持ちも考えずに、彼女を物扱いしてしまったことがないと言えるだろうか。
非情な父親と同じように。

圭市は考え事をしながら、意味もなく書斎を歩き回った。
先ほど宗一朗と交わした会話が彼に重く圧し掛かる。

いずれ子供のことも話し合わなくてはならない時期が来ることは分かっていた。しかし、今すぐにと言っても彼女は到底同意はしてはくれないだろう。第一に、まだ紗耶自身が子供の領域から抜け出せていないのだ。
そんな彼女に子供を望むのは、心身ともにかなりの負担を強いることになる。いくら家のためとはいっても、抵抗されるのは目に見えていた。

もちろん、彼自身は自分の子供を持てば、その子に愛情を注ぐことに吝かでない。精神的にも肉体的にも、早すぎるという年齢ではない。
だが、彼女は……。

今、彼と紗耶との関係は、思った以上に急速に進みつつある。
せっかく築きつつある信頼関係を一気に壊してしまいそうなこの話を彼女にすることは、彼には到底できそうもなかった。




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