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 迷いの森 

 第二章   廻る運命の歯車  2 



結婚までの短い期間の間に、圭市は多忙な中でも時間を作っては紗耶の元を訪れた。

女子校育ちの上にアトリエに籠っていることが多かった彼女は、外の世界、とりわけ男性との付き合いに関してはほとんど免疫がない。
最初は二人きりになっただけでも気まずい様子で、余所余所しい素振りの紗耶だったが、圭市はゆっくりと自分の存在を慣らしにかかっていった。

ただでさえ10歳以上の年齢差がある上に、相手は手管に長けている。
紗耶は次第に彼の存在を認め始め、来訪を歓迎するようになっていった。
一方、圭市の方も、先を急がせるような素振りは決して見せず、紗耶の気持ちを優先させるという言葉は嘘ではなかったと巧みに彼女に思わせた。
二人が一緒にいても婚約者というよりは年の離れた兄弟のような雰囲気で、一時はどうなることかとハラハラしながら側で見ていた房枝は、ほっと胸をなでおろしたほどだ。



「いつから絵を描き始めたんだ?」
その日、離れにあるアトリエを訪れた圭市は、キャンバスに向かう彼女を部屋の隅で見ていた。
「さぁ、いつからだったかしら。母が亡くなった時には、もう絵筆を握っていたような気がする。もちろん、まだちゃんとした絵なんてとても描けなかったけど、少なくとも母を亡くした悲しみは癒してくれた」

理由は分からなかったが、母が父に愛されていないことは、子供心にも漠然と理解していた。そして、母も父を嫌っていて、決して自分たちに寄せ付けようとしなかったことも。
両親の関係は、傍から見ていても複雑だった。
だが、少なくとも母親は紗耶には愛情を注ぎ、可愛がってくれたと思っている。あまり多くはない記憶の中の母は、いつも優しく、そして哀しげに微笑んでいた。
だが、父親となると、彼女の記憶に残るような特別な思い出は何もない。
大人になった今、敢えて父親にその理由を聞こうとは思わなかったし、聞きたくもなかった。
たとえそうしても、自分の存在が妥協の産物であることを再確認するだけのように思えたからだ。
今も昔も変わらず「結城」という名が、その家の人間を雁字搦めに束縛すると彼女は知っている。
おそらく母は、そしてある意味では父もその犠牲者であったのだろう。


できればいつか自分はそんな柵から逃れたい。紗耶はいつもそう思っていた。
両親のように、互いの存在を無視し合うような結婚はしたくない。
だが果たして、よく知りもしない目の前の男性とそんな緊密な関係が築けるのだろうか。
熱心に彼女の描いた絵を見つめる圭市を遠目に眺めながら、紗耶は沸いてくる不安を隠せなかった。



彼女の描く絵には透明感がある。圭市はそう思った。
どんな題材を使っても、出来上がる絵のイメージは「白」。それが即ち紗耶の色だ。
彼女の父親である結城宗一朗は、娘の絵を単なる趣味の道楽以上のものとは考えていないようだが、彼は違った。
行きがかり上、妻となることになったこの女性の美術的なセンスは計り知れず、かなりの才能の持ち主であることは見て取れた。
いずれ大成すれば、この世界で名を馳せるような芸術家になるかもしれない。

ただ、今の彼女は世間を知らなさ過ぎる。
年齢的に未熟なことを差し引いても、深窓の令嬢として世俗から隔離され、周りから傅かれてきたことは、紗耶にとって決して好ましいことではなかったのではないか、と圭市は思った。
自分ができる範囲でサポートするのは勿論だが、彼女自身がもっと強かになっていかなければ、いつかは周囲の要求や期待が重圧となって、押しつぶされてしまうだろう。
その上、彼女には、これから先も結城という家の屋台骨を支えていかなくてはならないという使命もある。
だが、目の前の少女はそれを担うにそぐわない、あまりにも繊細な感性の持ち主だった。

「この絵は?」
書きかけになっている一枚のキャンバスを手にした圭市は、窓辺に佇んでいる紗耶に問いかけた。
「別荘の…別荘から見た風景なの。秋は霧がすごくて、前が見えないくらい霞んでしまう。地元の人は『迷いの森』と呼んでいるわ」
「なぜ書きかけのままなんだ?」
「今年もまた、その季節になったら別荘へ行こうと思っていたから。あちらにもアトリエがあるの。でも…」
言外に今の状況が想定外であることを滲ませる彼女に、圭市が苦笑する。
「心配しなくても、行って来るといい」
「本当に?」
「ああ。私も一度、その場所を見て見たいと思う」
「そう…」
暗に同行を仄めかすが、彼女の口から否定の言葉は聞かれなかった。


紗耶の態度はいつもこうだった。
受動的であまり感情を表に出す方ではなく、どちらこというと内に溜め込んでしまうタイプだ。
ただ、それが臨界点を超えると、突然衝動的な行動に出ることがある。
その例があの結納の時だ。
総じて周囲からは控えめで穏やかな性格だといわれているようだが、その内面には激しい感情の起伏があり、それをうまく隠しているだけだと彼には感じられた。
おそらく彼女は子どもの頃から多くの制約を受け、自分の我侭を口にすることさえできなかったのだろう。長年置かれてきた環境が彼女の我を抑えつけ続けてきた結果、紗耶は年齢以上の落ち着きと、自分をコントロールする術を学ばざるを得なかったのだ。
表面的な冷静さと内面の激しさ。
そして、その二面性を綱渡りのような危ういバランスで行き来する、脆い心の存在に、圭市は気付いていたのだった。


「迷いの森」
絵に見入りながら呟く圭市に、紗耶が頷く。
別名、神隠しの森とも呼ばれるその場所は、古くから悲しい伝説のある森だった。
その昔、戦に破れ、追手に追われた女性たちが森の奥深くに逃げ込んで自害したと伝えられる場所には今も小さな祠が祀ってある。
その他にも、結婚を無理強いされた村長の娘が、婚礼の日、衣装だけを残して森に中に消えた話や、子供が森に迷い込んで行方知れずになり、気がふれてしまった若い母親の話、死んでしまった恋人を探して、今も森を彷徨い続ける男の霊がいるという話など、この森に関る悲劇的な話には際限がない。

子供の頃にその話を聞かされた時、幼心に恐ろしいと思う一方で、それらの思い残しをすべて浄化してしまうような、荘厳な森の佇まいに魅入られたのは事実だ。
周囲の大人たちは、小さな子供が不注意に森に近づかないようにと警告の意味で語ったのだろうが、彼女はその神秘的な有り様に強く魅かれた。


「大きくて、深い森よ。ひと一人くらいならば、すぐにでも存在を隠してくれそうな、神秘的な恐ろしさも感じられるわ。遊歩道は整備されているのに一度道を外れて迷うとなかなか外へは出られない。実際過去には何人もの人が迷い込んでは捜索隊に助け出されたの」
「だから迷いの森か…」
「本当に美しい場所。魅入られて、そのまま囚われてしまいそうなくらいに。
例えばそこで何もかも忘れて…自らと共にすべての柵を消し去ってしまえるのならば、私は迷わずそうするでしょうね」

その声に潜む強い切望にはっとして振り返った圭市は、まるで何かに焦がれるような眼差しで窓の向こうを眺める紗耶を、言葉もなく見つめていた。




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