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 迷いの森 

 第二章   廻る運命の歯車  1 



紗耶が物心ついた時、すでに彼女の生活に父親は存在しなかった。
側には体の弱かった母親と、同じ敷地に暮らしながら年に数回しか会わない疎遠な祖父、それに何人かの使用人がいただけだった。
その母親が亡くなったのは、紗耶が6歳になったばかりの時。
母は、まだ20代半ばという早世だった。


幼くして母と死に別れた紗耶だったが、彼女はごく普通の女の子として伸びやかに育った。
特に中学に上った頃から絵画に目覚め、絵を描くことに才能を発揮し始めた。
幾つかの展覧会に出品して賞を獲得したことから注目を集め、将来は美術関係の仕事に携わるのが彼女の夢となった。
独学で勉強するだけでなく有名な画家に師事して、後々は美大への進学を望んでいたのだ。

その生活が一変したのは、彼女が高校2年の夏休みだった。
その数ヶ月前に祖父が倒れ、家や事業は名目上彼女の父親がすべてを掌握していたが、紗耶自身はそれまでと何も変わらない日々を送っていた。
その彼女に突然結婚の話が舞い込んだのだ。
即座に紗耶はその話を拒否した。
相手は父親の会社の出資者の息子であり、彼自身も経営に携わっている父の側近中の側近だが、紗耶にはまったくといってもいいくらい接点のない男性だ。聞いた年齢も、かなり彼女とは離れている。それだけでもこの縁談に乗り気になれなかった。

結城家の跡継ぎという立場上、彼女自身もいつかはそういった話が持ち込まれるだろうとは覚悟はしていたが、高校在学中にそんな状況になるとは思ってもいなかった、というのが正直なところだ。
幼い頃から家名に対する責任を言い含められて育ってきた彼女だけに、必要とあれば有能な婿養子を迎える心積もりはあったが、こんなに早く、それも自分の夢を捨ててまで家に忠義を尽くす気はさらさらない。
それも、ほとんど自分と関ろうともしなかった父親から一方的に言い渡された結婚など、絶対にしたくはなかった。


しかし、彼女の意向を無視する形で、周囲は勝手にこの縁談を推し進めた。そのために、紗耶が相手の圭市と正式に顔を合わせたのは結納の席だった。それまで何度か彼から外出の誘いはあったものの、紗耶がすべて同伴を断ったためだ。

「これはまた、変わった趣向ですな」
結納当日、紗耶は会場のホテルの部屋に高校の制服姿で現れた。伝統的なセーラー服にゴムで一つに纏めてくくっただけの髪の毛。白い靴下に革靴。
その格好は、高級なホテルにはどこか場違いないでたちだった。

今日のためにと父親が振袖を送りつけてきたが、紗耶は断固としてそれを身につけること拒んだ。それが父親に対する従属を表すと分かっていたからだ。
そして、仕度ができず困惑する房枝を尻目に、馴染んだ制服を着込むと、履き古した革靴をひっかけてそのままこの会場へと乗り込んだのだ。
これには相手方の両親や自分の父親、仲人となる知人までもが一斉に目を剥いた。

「お前は一体何を考えているんだ」
父親の怒号に、彼女は震えながらも毅然として答えた。
「私はこんな茶番に付き合うつもりはまったくありません。本人抜きで勝手に事を進められても困ります。私はこんな馬鹿げた話に付き合うのは嫌だと何度もお答えしたはずです。」
「何を今更戯けた事を。あれほど言っておいただろうに」
「それはお父さんたちのご都合でしょう?私は一度も了解した覚えはないわ」
唇を震わせながらも、つんと顎を上げてそう言い切った彼女の後ろで笑い声が上る。
「結城社長、あなたの負けですよ。このお嬢さんの言うとおりだ。彼女の承諾抜きではこの結婚は進められない」
その声に驚いて振り向くと、そこにいたのは当事者の圭市だった。

彼女が彼を見たのはこれが最初ではない。祖父の名代として出た会社の行事の席で隣り合わせに座ったこともある。
だが、面と向かって彼と話をするのは今日が初めてだった。

「社長、皆さんも、少し席を外していただけませんか?ちょっとお嬢さんと二人で話をしておきたいことがあるんです」
「しかし、圭市君…」
「私に任せてください。お願いします」

彼の言葉に、納得しかねる様子ながらも、その場にいた全ての人が彼女と圭市を残して退室する。
二人きになり、がらんとした部屋は妙に静まり返っていた。


「あなたもあの人たちに何とか言ってください。他人に勝手にこんなことをされて、あなたは平気なんですか?」
少し考えるように間を置いて、圭市が答える。
「私に異存はない。これは私と君の家、つまり結城家の契約みたいなものだから」
「契約?」
彼があまりにも平然と言い切った言葉に、紗耶は唖然とした。
「私は結城の事業を内側から動かすための力が欲しい。だが、それに直接君を巻き込むつもりはないから、君はこれからも自分のしたいことをすればいい。ただ、そのためにはどうしても君には私との結婚を承諾してもらう必要がある。でないと、煩わしい外野を黙らせることはできないからね」

昨年祖父が他界してからというもの、グループ内で覇権争いが起きていることは彼女の耳にも入っていた。元々入り婿だった紗耶の父、宗一朗と亡くなった祖父の息のかかったグループが会社の経営権をめぐって対立しているのだ。

「このまま放置しておくと、彼らが会社を分断して潰しかねない。だから社長と私はこの話を急いで進めたんだ。
次の結城家の当主は跡継ぎの配偶者、すなわち君の夫がなることは誰しもが分かっていることだ。今の状況を安定させるために、私は、いや私たちは何としてもその立場が欲しい。それは君にも、経営者の娘として理解した上で納得してもらうしかない。もちろん、君の気持ちが最優先されることが一番望ましいのは分かっているが…」
そう言って紗耶を見つめる彼の鋭い目が、一瞬柔らかく緩む。
「ただ、私にしてみれば、この結婚に若くて美しい妻が付いてくることは嬉しいボーナスだった」

最後の言葉にどぎまぎしながらも、彼女は率直に核心を問うた。
「では、この結婚は名目上の…形だけの結婚ということですか?」
「それはまだ何ともいえないな。もちろん、普通の、常識的な結婚生活ができればそれに越したことはない。それはこれから二人で追々話し合って決めていくことになるだろう」

紗耶は、彼の理論にいとも簡単に押し切られそうになっている自分を感じた。
人生においても社会経験でも、圭市の言葉の方が彼女の衝動的な行動より数段説得力がある。
「では、どうしてもこの話を進めると」
「是が非でも。それは君にも聞き分けてもらいたい」
「嫌だといったら?」
「家と会社のためという事情を知ってしまった以上、おそらく君にそれは言えないだろう。多分、君は…結城家を継ぐ人間として、そう教育されてきたはずだ」

言葉に詰まる紗耶に、圭市が同情的な表情を見せる。
「そんなに悪い話ではないと思わないか。私が事業と家を管理すれば、君はそういった柵から解放されて好きなことだけをしていられる。もちろん、それなりに果たす責任は出てくるだろうが」
「責任?」
「そう、責任というよりも義務というべきか。君は次の結城家の当主を産み育てなくてはならない。これは結城家の跡取りである君、結城紗耶以外には誰も肩代わりできないことだ。だが、それ以外は私が担えば事が足りる。そのあたりの損得もよく一度考えてみることだな」


その後、部屋に呼び戻された面々は、とりあえずこの場が収まったことに驚いた様子だった。
そして、仮ではあるが、予定通り結納が交わされることとなる。

「もし、何か不手際があって破談になっても、倍返しは要求しませんから安心してください。元々これを頂いて婿養子に入るのは私の方ですから、彼女には傷はつきませんよ」
品々を指して冗談を言いながら笑う圭市と、見るからに安堵を滲ませる父。
二人の思惑を知る由もない紗耶は、複雑な思いでその場に臨んでいた。



結局、結納で着るようにと誂えられた高価な振袖は、そのまま一度も袖を通されることなく蔵の奥へと仕舞われた。

彼の説明と説得に一応納得した紗耶は、渋々ながらも圭市との結婚を承諾し、その準備に入った。
他家に入る圭市と違い、彼女には別段特に用意するものもなく、家を片付ける程度だったが、高校は中途退学を余儀なくされた。私立の女子高では、やはり既婚者の在学は認められなかったからだ。
仕方なく、紗耶は後に大検を受けるということでそれを了承した。美術系の学校であれば、それでも進学には何だ支障はないはずだった。


結納が済んだのは8月。
挙式は一月後の9月の下旬と決まり、慌しく準備が進められていく。
そんな中で、圭市と紗耶は少しずつ互いの距離を縮めていったのだった。




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