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 迷いの森 

 第六章   消せない過去と未来への扉  7 



それから季節は廻り、翌年の3月。
美優は高校卒業を迎えた。
まだ少し肌寒さが残る早春。
伝統ある古めかしい校舎を見上げながら、圭市はそこに自分が娘と並んで立っているということに感慨を覚える。

これで隣に紗耶がいてくれたら…。

美優は制服の上にアンティーク・レースのケープを羽織り、それをクラスフラワーの藤をあしらったブローチで留めている。学校が創設された戦前から続いているという、伝統の卒業生のいでたちだ。
かつては紗耶もこの学校の生徒だった。自分と結婚したために途中で退学を余儀なくされた彼女にはこれを身につける機会がなかったが、さぞ今日の娘の晴れ姿を見たかったことだろう。



アメリカに帰国した紗耶は、その後画廊を手放し、商売の本拠地をアメリカからヨーロッパに移した。
そして現在は同時期に同じく活動の拠点を欧州に移したエドワードと共に世界中あちこちを回っていて、事務所を構えるパリに戻って来た時に連絡があるくらいだ。
先月、彼女のオフィスに今日の招待状を送っておいたのだが、まだ返事は返ってきていない。
口には出さないが、折角の卒業式に母親が列席できないことに、美優も少し気落ちしていることは見て取れた。


「お父様、あれを見て」
美優が示す方を見ると、校門の方からこちらに向かって歩いてくる一人の男性が目に入った。スーツ姿の彼はひょろりとした細身の長身で、記憶よりも長く伸びた金色の長い髪を後ろでひとつに束ねている。
「あれはエディ…エディよ」
期待に満ちた表情で父親の方を振り返ると、美優は彼の方に向かって歓声をあげた。
「エディ!」

「美優」
「美優様」
父親と柏木の呼び止める声には見向きもせず、彼女は手を振りながら一直線にエドワードの元へと駆け出す。
彼女に気付いたエドワードが小さく手をあげてそれに応えた。
「来てくれたのね」
彼はほんの少しだけ屈むと、美優の頬に軽く唇を落とした。
「卒業おめでとう、美優」
「ありがとう、エディ。はるばる来てくれて」
美優はそのキスにほんのりと頬を染めながら、期待に満ちた目でエドワードを見上げた。
「ところで、お母様はどこ?」
それには答えず、エドワードは美優と並んで圭市の前まで歩を進めると、軽く会釈をしてから徐に脇に抱えていた大きな包みを彼らの前に差し出した。
「君にプレゼントだ」
困惑する美優に、エドワードは包装を開けるように促す。
「これは…?」
そこにあったのは一枚の絵だった。透明に近いほど薄く白い靄に煙る朝の森。圭市にはその風景画に見覚えがあった。
「マリアが…君のお母さんが書いた絵だ」



額装されていない、剥き出しのキャンバスに描かれていたのは、別荘のアトリエから見える、迷いの森の景色だった。
圭市はずっと以前にも一度、これと同じ構図の絵を見たことがある。彼と紗耶が結婚する前に、彼女のアトリエに立てかけてあった未完成の風景画だ。
紗耶がすべてのキャンバスを黒く塗りつぶしてしまったためにどれがその絵か分からなくなってしまっていたが、修復に手を付けることもできないまま放置してあったはずだ。
彼女は密かにそれを探し出して持ち帰り、完成させていたのか。

「エディ、それで…お母様は?」
「マリアは、今日ここには来ない。いや、来られなかったんだ」
エドワードはそう言うと目を伏せ、肩を落とした。

「彼女は今、スイスの病院にいる。恐らく、もう長くはないだろうと…医者からは言われている」
「嘘!どうして?」
エドワードの言葉に、美優が小さく叫び、圭市が顔色を変える。
「昨年日本に帰国した時には、すでにガンが再発していた。疲れやすくて、薬を服用しなければすぐに体調を崩して動けなくなる。
もうすでに3度目の再発だったから、今度はそれなりの覚悟をしなくてはならないことは彼女自身も薄々感付いていたんだと思う。だから無理をすれば病状が悪化する、それを承知の上で、彼女は最後に自分の命を削って君に、いや君たちに会いに戻ってきたんだ」
「そ、そんなまさか…」
あまりのことに絶句する美優の側で、圭市はその場に立ち尽くしていた。
あんなに穏やかに微笑んでいた紗耶が、ガンに侵されていたとは俄かには信じられなかった。
だが、考えてみればその兆候はあった。身体にはそんなに古くない複数の手術痕が残っていたし、以前に調査したときに、この数年間に何度か3ヶ月近くの長期休暇を取っていたではないか。思えばあれはガンが再発するたびに入院加療していた期間だったのか。

それに気付いて愕然とする彼の脳裏に、空港での別れのシーンが過ぎる。

「いつかまた会える?」
出発ロビーで涙ながらに縋り付く美優の肩を抱き寄せて、紗耶は優しく微笑みながらこう言った。
「その時が、機会があれば。でもたとえ会えなくても、私の心はいつもあなたたちの側にあるわ。これからもずっと。 幸せになりなさい、美優。あなたは私の宝物なのよ。命よりも何よりも大切な私の……」
紗耶はそう言うと、まるでこれが最後の抱擁とでも言うように、強く強く娘を抱きしめたのだ。
「私の美優、…幸せになるのよ」



「もう今の彼女に生きる気力は残っていない。それが何より病気の進行を早めているように思えてならない。ドクターも同じ意見だ。今までずっと側にいたけれど、結局、僕では彼女を支えきれなかった」
エドワードは打ち沈んだ表情で圭市を見つめた。
「病気のことはマリアには堅く口止めされていたのだけれど、あなたにどうしても伝えたくて。
今日だって、本当は彼女も何とかしてここに来たかったと思う。だけど、もうすでに長時間の移動に耐えられるだけの体力がないから…だから僕が代わりに来たんだ。この絵を託されて」

圭市はキャンバスを見つめたまま、何かに射貫かれたように動けなかった。
紗耶と共に過ごした最後の夜、夢現つの中で彼女が囁くように告げた言葉が記憶に甦る。

『今までありがとう、あなた…』

あれは、これが最後という思いを込めた、別れの言葉だったのか?

「お父様、すぐに行ってあげて」
美優が父親の腕に縋る。
「今行かないと、お父様は一生後悔するわ」
「彼女は今も心のどこかであなたを待っているんだ、ミスター・ユウキ。もう一度、彼女に生きる力を与えられる人がいるとしたら、それはあなたしかいない」

エドワードはそう言うと、胸の内ポケットから一通の封筒を取り出した。
「ここにチケットがある。僕の帰りの飛行機なんだけど、直行便だから12、3時間もあれば現地に着ける。プライベート・ジェットを準備するよりも早いと思うよ。これをミスター・ユウキ、あなたに譲ろう。
ただし、出発は2時間後のナリタ。すぐに準備しないと間に合わない」

差し出された封筒を、圭市が震える手で受け取る。
「ありがとう、ミスター・ウォレン。この借りはいつか…」
「いいから、すぐに行ってください。彼女が待っている」

圭市は踵を返したが、何かを思い出したようにすぐに足を止めた。
「しまった、これから卒業式があるんだった。お前を一人放って行く訳には…」
「大丈夫よ、お父様、彼がいるんだもの」
柏木が、エドワードを牽制するように美優の肩を抱く。
「ご心配なく。私が、社長と紗耶様の分まで見届けます」
「早く行ってあげて、手遅れにならないうちに」
「すまない、美優」

歩き出す父親の背中に向かって、美優が声を掛ける。
「今度は間に合うように、二度とお母様を悲しませないように。お父様、急いで!」
圭市は再び立ち止まって振り返り、驚いたような表情を浮かべたが、何も言わずにそのまま足早に立ち去った。

「あんなに慌てていそいそと、小走りをする社長を見たのは初めてだ」
「まるで恋人に会いに行くみたいにね」

そんな二人の会話に耳を傾けながら、エドワードは心の中でかの女性に語りかける。
『マリア、君の圭市がそちらに向かったよ。ちょっとお節介だったけど、僕がしたことを怒らないでいてくれるかな』
彼は側にいる美優たちに見えないように、小さく十字を切った。

『あなたに神の聖寵があらんことを。僕は最後まで奇跡を祈っているよ、僕の…アベ・マリア』



「ところで、美優、君は大学で経済学を専攻するそうだね。マリアから聞いたよ」

美優は当初の予定を大きく変更し、推薦ではなく一般入試で大学を受験、見事に難関を突破して合格した。
財界人や政治家も数多く輩出するそこは、私学の中では最高峰と呼ばれる某大学の経済学部だ。

「私は経営者の妻ではなく、自分で会社を動かせる力が欲しいの。そのためにはまず経済の仕組みを学ばないとね。もちろん、箔付けも必要だし」
「そのために推薦枠で無条件に入れる、お嬢様学校…いやいや女子大を蹴ったと?」
「そのとおり。受験勉強はかなり大変だったけど、頑張った甲斐はあったわ。これからは、目指せ、女性実業家よ。」
鼻息も荒い美優を横目に、エドワードは同情を湛えた表情で柏木を見た。
「君もこれからますます苦労しそうだな」
「…覚悟はしていますよ」
「まぁ、彼女はあのミスター・ユウキでさえ手を焼くじゃじゃ馬らしいから…」
その言葉に、柏木が溜息をついた。
「これも惚れた弱みです」


「何を二人でこそこそやってるの?そろそろ行かないと。参列者の入場が始まったみたいよ」
少し先を歩く美優が、優雅に二人に手招きをする。
「そういえば君、バレエはどうするんだ?せっかく頑張っていたのに」
エドワードの問いかけに、美優はわざとらしく盛大にお手上げのポーズをしてみせる。
「実は身長がついに170センチを超えてしまったの。それがバレエ団のみんなにもバレちゃった。元々プリマを目指せるほどの力量もないみたいだし、これからは趣味として続けていくつもりよ」
「やっぱりそうか。さっきキスしたとき、前より一段と身長が伸びたように思ったんだ。随分巨大に成長したんだな」
「『巨大に成長?』まったく失礼な!日本語の使い方間違ってるわよ、ガイジンさん?」
憤慨したように、わざとらしく眉を吊り上げながら、美優が異議を唱える。
「それに、いいの。私の身長につり合う人をちゃんと見つければいいんだから!」
「ですが、私はこれ以上、成長しないと思いますが…」
ぼそりと呟く柏木を美優が横目で睨む。
「何か言った?」
「いえ、何も…」


そんな二人のやり取りを、エドワードは苦笑しながら見つめていた。
美優は今、自らのキャンバスに、まだ見ぬ自分の将来の形を描き始めている。それは何者にも邪魔されない、力強さと大らかさを持つ、彼女だけの未来予想図だ。
そういえばマリアは言っていた。

「私には手が届かない未来への扉が、私の命を受け継ぐ娘の前には大きく開かれているのだ」と。




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