第一章 帰郷 4 レッスンから帰宅した美優も交えて、圭市と少々気詰まりな夕食を取った紗耶は、早々に部屋へと引き上げた。 彼女のために、ゲスト用のツインルームが用意されていた。 さすがに帰宅早々に、圭市の使っている主寝室での就寝を勧める者はいなかった。 今も戸籍上は婚姻関係が継続されてはいるが、実質夫婦としての生活は短く、その上18年もの別離を経て完全に他人になってしまったことは、二人の様子を見れば一目瞭然だ。 「そもそも、私たちはここで一緒に暮らしたことさえなかったのよね」 窓の外に広がる中庭を見ながら、紗耶はそう呟いた。 結婚してから3ヶ月ほどは、美優の言う「森の別荘」で過ごした。その間も圭市には仕事があったため、東京と別荘を行き来する、いわゆる週末婚だった。 その後、美優を身ごもった紗耶は東京に連れ戻され、その後は離れに隔離される生活を送ったが、その間圭市がどのように生活しているのかを知ることはなかった。 そして、渡米。 最後まですれ違い続けた夫婦は、別れの言葉を交わすこともないまま、別々の人生を歩むことになった。 その結果が今の二人の現状だ。 ノックの音に追想を遮られ、紗耶は慌てて窓の側から離れた。 「お母様?」 ドアの向こうから顔を見せたのは美優だった。 時計は11時半を回っている。 高校生には遅い時間とは言えないのかもしれないが、そろそろベッドに入ってもいい頃だろう。 「どうしたの?こんな時間に」 すっかり寝支度を済ませた美優が、室内に滑りこむ。 「今夜はここで寝させてもらおうと思って。いい?」 返事をする前に、既に彼女は空いている方のベッドに潜り込んでいた。 そんな娘の姿を見た紗耶は、お手上げのポーズをしつつも、笑みをうかべながらわざとらしく溜息をついた。 「いびきはかかないでね」 「もう、そんなことしません。これでもお嬢系女子高生なんだから」 照明を落とした部屋で、小さなサイドテーブルを挟んで隣り合わせにベッドに入った母に、娘は今の彼女をとりまくあらゆることを思いつくままに話し始めた。 特に紗耶の興味を引いたのは、美優が気になっているという男性の話だった。 敢えて名前は言わなかったが、内容から彼女の思い人が父親の側近の一人であろうことは容易に想像できる。 「でも、その方は社会人ならば、ちょっと年の差があるでしょう?」 「7つ、ううん8つかな。だからいつも私のことを子ども扱いして、ちっとも真面目に取り合ってくれないの」 美優よりも7、8歳年上ならば、24、5歳というところだろうだ。 社会人になって一、二年。今が一番忙しく、また充実した楽しい時期だろう。 それに、オフィスには同年代の垢抜けた同僚もたくさんいるはずだ。上司の娘とは言え、まだ社会にも出ていない子供を相手にするのが億劫なのは想像に難くない。 「でも、お母様だって、お父様と10以上も年が離れているでしょう?それに、結婚した時にはまだ私と同じ17歳だったって聞いているわ」 紗耶は突然自分たちに振られた話題に戸惑った。 確かに自分は17歳という年齢で結婚した。だが、それは半ば強要されたものであって、その過程は美優が思っているような楽しいものではない。それをどううまく誤魔化して伝えればよいのか。 「そうね、私も若かったわ。でも、できることならば、もっといろいろなことを学んで自分に自信をつけてから、そうなりたかった。 何も知らない、できないのに周りからの期待ばかりが大きくて、プレッシャーに押し潰されそうに思えたのよ」 「だから日本に…家に帰りたくなかったの?」 暗がりの中でも紗耶がたじろぐのが分かった。 「私だってもうそのくらいのことは分かる年齢なのよ。何があったのか、誰もちゃんとは教えてはくれないけれど、噂話は結構耳に入ってくるし」 醜聞は結婚した時から常に彼女たちに付きまとってきた。 だからこそ、あの時父親と圭市は自分を国内の病院に入れることなく、強引に海外に出したのだろう。 スキャンダルを嫌う彼ららしいやり口だった。 紗耶が失踪した当初も、結城家は表向き彼女はアメリカで生活しているといい続け、その裏で秘密裏に彼女の行方を追わせていた節がある。 だが、人の口に戸は立てられない。 じきに紗耶がアメリカで所在不明になっていることは知れ渡り、面白おかしくいろいろな噂を立てられたことだろう。 それを今まで美優がどんな思いで聞かされていたのかと思うと、堪らないものがあった。 「帰りたくないわけではなかった。ううん、本当は帰りたくてたまらなかった。でも帰れなかったわ」 「それは、なぜ…?」 紗耶はしばらく口ごもったが、意を決したようにぽつぽつと話し始めた。 「最初は帰りたくても帰れなかった。お金も手段もなかったし、勝手なことをして自分で飛び出した手前、結城の家には頼りたくなかったの。 それに変なプライドもあったわ。私はもう誰かに庇護されなくても、自分ひとりでやっていけるということを示したかったのかもしれない。家や夫に縛られる生活も嫌だった。 そして月日が経って、本当に自分の力で生きていけるという自信が持てた頃には、手段はあっても帰れなくなっていた。お金は手元に充分あったし、ステイタスも得ることができた。 でもね…その頃には私の人生は、ここには、日本にはないことに気付いてしまったから」 「そんなの勝手だわ。残された私や、お父様や…お祖父様はどうなるの?」 「あなたには、あなたにだけは申し訳ないと思っているわ。でも…」 「お父様は、お父様に対してはどうなの? お父様はずっとお母様が帰ってくるのを待っていた。毎年アメリカに行ってはお母様を探して歩いていたのよ。周りから勧められても再婚だってしなかった。それなのに…」 「それは違うわ」 紗耶は、美優が驚くほど強い口調で彼女の言葉を遮った。 「彼に対しては正直に言って複雑な心境よ。18年もの間、なぜ再婚もせずに私を待ち続けていたのかは分からない。でも、少なくとも彼が私を愛していたからそうしたのだとは思えない。そう思うだけの理由がないの」 怪訝そうな顔でこちらを見つめる娘の表情を見た紗耶は、自分が多くを語りすぎたことに気がついた。 美優は何も知らない。圭市もそう言っていたではないか。 だが、ここまできたら自分の発言を取り消すこともできない。 考えあぐねつつも、紗耶は必死で娘を傷つけずに済ませられる言葉を探した。 「圭市さんは、最初から私自身を望んだわけではなかったのよ。彼が私と結婚したのは、父が…あなたのお祖父様が彼を自分の後継に、と考えたからなの。 彼にとって私との結婚は、会社と結婚するのと同じこと。要は、私は彼を結城の家に取り込むための踏み台でしかなかったのよ」 本当はもっと醜い裏の事情があったのだが、それを自分の口から言うことはできなかった。特に美優が父親に対して悪い感情を持ってないと分かった今、むやみにそれらを引き合いに出して娘を混乱させるようなことはしたくない。 「そんな…」 美優が言葉を詰まらせる。 彼女はきっと、両親がそんな理由で結婚したとは知らなかったのだ。 多分周囲は…圭市は適当に、自分たちに都合が良いように、二人の結婚話をでっち上げたのだろう。 もうこれ以上は言えない。 例えそれが真実であっても、忌まわしい過去を娘が知る必要はない。 「さあ、もう休みましょう。今日はいろいろとあったから、私もくたくたなの。時差ボケかしら」 わざとらしく欠伸をしながら紗耶が布団に潜り込む。 「お休みなさい、美優」 「……お休みなさい、お母様」 少し間を置いて帰ってきた声に、紗耶は安堵した。 すべてを納得したわけではないのだろうが、少なくとも美優はこちらからの働きかけを拒絶してはいないと分かったからだ。 時計の針が深夜を回った頃、紗耶は静かに起き出すと、美優の眠る隣のベッドの側に立った。 ずれた上掛けを直し、その穏やかな寝顔を見つめる。 あなたにだけは、私と同じ思いは絶対にさせない。 どんなことをしても、あなたを守ってみせるから。 自分とよく似た娘の面差しを見ながら、紗耶は今まで自分が辿ってきた人生の道のりを、静かに思い出していた。 HOME |