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 迷いの森 

 第六章   消せない過去と未来への扉  6 



日本滞在の最後の数日。
紗耶は別荘で圭市と二人きりの時間を過ごした。

最初、美優も誘ったのだが、彼女はバレエの発表会が終わるとすぐに大学入試にむけての受検態勢に入っているため、遠慮すると言ってきた。
両親は、高校と同じミッション系の私大に推薦で進学するのに、そんなに大変なのかと訝しんだが、美優は意味ありげに笑うだけだった。
多分、娘は娘なりに気を使ってくれたのだろうと二人は考えたのだが、実は美優には他にある魂胆があったのだ。
それが明らかになるのは少し先の話になる。

こうして紗耶と圭市は別荘にやって来たのだが、実は二人だけでこれほど長い時間を過ごすのは初めてのことだった。
結婚してすぐにここで生活していた時には常に誰かが側にいたし、屋敷に戻ってからも二人になる時間はなかった。
当時は状況が許さなかったせいもあるのだが、仮にもしもあの時二人になるチャンスがあったとしても、今のように穏やかに語り合えたかどうかは分からない。
年を重ね、互いにいろいろな苦労をしてきたからこそ、こんな時間を過ごせるようになったのかもしれない、と紗耶は思った。



「確かこの木だった…と思うわ」
その朝、深い森を歩いていた二人は、遊歩道から少し外れた場所に来ていた。
そこは鬱蒼と生い茂った木々の中にあって、ほんの僅かだが日差しが差し込み陽だまりを作っている。
「ここが?…」
「そう、多分ここが…母が亡くなった場所だと思う」

そこには、周囲より一際大きな木が今も昔も何事もなかったかのように聳え立っていた。
「私が見つけた時には、多分もうすでに母は亡くなっていたと思うのだけれど。あの頃の私の背丈では母の爪先に触るのが精一杯だった。それでも母の足はまだ温かかったわ。それが段々と冷たくなっていって…。
明け方、夜露が降りてきて、パジャマ1枚しか着ていなかったから寒くて冷たくて、暗闇が怖くて。それでも母の側から離れられなかった。
朝になって誰かが見つけてくれるまで、私はずっと独りぼっちでここに立っていたの。
その間ずっと、赤ちゃんのことで喜んだりしなければよかったと思っていたわ。私があんなにはしゃいで母を苦しめたからこんなことになったんだって、何度も何度も後悔して…」
「紗耶、もういい、止めなさい」
虚ろな目で大木を見上げながら、淡々と話し続ける彼女を圭市がそっと抱き寄せた。
「お母さんが亡くなったのは君のせいじゃない。分かっていることだろう?」
「でも、子供心にはそうとしか思えなかった。あの時の母の悲しそうな顔がどうしても忘れられなかったの。
その時から、私は心から笑えなくなった。笑うだけでなく、怒ることも悲しむことも、気持ちを素直に表せなくなった。要は感情を露にするのが怖くなったのね。
そしてそのまま成長してしまったわ」

圭市は彼女と結婚する前に、引き合わされた当時を思い出す。
確かに紗耶は感情の起伏がほとんどない少女だった。何事にも控えめな反応しか示さず、わがままを言うこともなかった。
同じ年頃の、娘の美優を見ていると、その差は歴然だ。

しかしその話の内容を聞いていた圭市は、ふとあることに気付いた。
「君はお母さんの…亡くなった時のことをずっと覚えていたのか?」
確か房枝の話では、紗耶はその時の記憶が欠落していると聞いたはずだが。

彼女は唇を少し歪めるようにして噛み締めると、小さく首を振った。
「何年か前に、どうしても抜けだせないほど気持ちが沈んで落ち込んだ時期があって、カウンセリングと催眠セラピーを受けたの。その時に少しずつ思い出したわ」


紗耶が再び体調に異変を感じたのは、画廊の経営が軌道に乗り、多忙になり始めた頃だった。
子宮を摘出した時から年に数回検査をしていたお陰で、再発はすぐに見つかったが、それでも彼女が受けたショックは大きかった。すぐに再入院して手術を受けたが、その後からしばしば悪夢に悩まされるようになったのだ。
日中はまだよかった。仕事が全てを忘れさせてくれる。しかし夜になり、一人ベッドに入るとどうしてもマイナス思考から抜け出せなかった。
繰り返す悪夢にうなされるうちに不眠症に陥ってしまい、薬に頼らないと眠れない状態にまでなっていった。そしてついに彼女は専門医の門を叩いたのだ。

「夢の舞台はいつもこの森の側だった。なぜか私は、追われて逃げ続けていたわ。最後に目の前にある森の中へ逃げ込もうとするのだけれど、どうしてもそこまでたどり着けないの」
「それほどひどい夢だったのか」
紗耶は曖昧に頷いた。
夢の内容を聞かせることはできない。
そこにはいつも彼が関っていたのだから。

「最後には必ず追いつかれてしまうの。そして無理やりに森から引き離されて、連れて行かれそうになるのだけど、決まってその時に私が吐く言葉があって…『あなたなんか、地獄に堕ちればいい』って」
「それはまた、きみらしくない暴言だな」
「そう言うと必ず「一緒に地獄に堕ちよう」って拐されそうになるのよ」
それを聞いた圭市が唇を歪めて笑う。
つられて紗耶も笑ったが、彼の次の一言で顔からその笑みが消えた。

「でもね、願わくば、私は最後の瞬間まで君と共にいたい。だからもしも地獄に堕ちるのならば、私も同じようにこう言うだろうね。『その時は…君も一緒だよ、紗耶』と」



その夜、二人は絡み合うようにしてベッドに横たわっていた。
紗耶の胸に顔を埋めるようにして眠る圭市の腕の重みが、引き寄せられた彼女の腰にかかっている。
指でそっと彼の髪を梳きながら、紗耶は昼間のことを思い返していた。

彼女が受けたセラピーで、セラピストはいろいろな角度から彼女のみた夢を検証してくれた。そしてそれは母親の死と父親の無関心、幼い頃から周囲にかけられ続けた重圧と、夫への依存を伴う恐怖心が根底にあり、それに過度の自制によるストレスが重なって原因となっているのではないかと診断された。
今では滅多にみることもなくなった夢だが、当時から何となく彼女にはその暗示するところのものが判っていた。

母の最後を目の当たりにした紗耶にとって、迷いの森は死を暗示する場所だ。そこに逃げ込もうとする自分を力ずくで森から引き離そうとする「悪魔」は彼女をぎりぎりの所で現世に押し留める枷だった。
彼がいるから自分は死を選べなかったのだ。
これまでは紙一重のところで彼女を生へと繋ぎとめ、正気の域に引きとめたのは、顔も見ることができなかった娘への思慕だと思っていた。だが、実際に彼女を生きたいと願わせ続けた思いの原動力は、捨て切れなかった夫への執着だったのかもしれない。

そんなことに今頃気がつくなんて。
どうしようもなく愚かな自分を省みて、紗耶は小さく溜息をついた。
最早行き着くところまで来てしまった自分が最後に堕ちるのは地獄に違いない。そんな自分と共に一緒に堕ちて欲しいと乞い願わなければならないのは、本当は圭市ではなく自分の方なのだ。

だが、圭市は何も話していないにも関らず、彼女に夢の中と同じ科白を告げた。

堕ちる時はどこまでも一緒に、と。

それだけで、もう充分だった。
自分は彼にそこまで想ってもらえるほど価値のある人間ではない。
これ以上、圭市を自分と共に絶望の淵に引きずりこむようなことはしたくはない。

紗耶は穏やかな彼の寝息を肌に感じながら、心の中で静かに別れを告げた。

「今までありがとう、あなた…」
でも、もう私のことは忘れて、あなたには自分の幸せを探してもらいたいの。
結城紗耶は、18年前の…あの時に死んだ。そう思ってこれから残りの人生を自分のために歩んで欲しい。

彼を胸に抱きしめると、眠っている圭市も無意識に強く抱き返してくる。
まるで彼女の思いを悟ったかのようにその夜、彼女を抱く彼の腕が緩むことはなかった。




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