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 迷いの森 

 第六章   消せない過去と未来への扉  5 



宗一朗の本葬からひと月後。
臨時の役員会が開かれ、会社としての新たな指揮系統が再構築された。
元々会長とはいっても、宗一朗はすでに長年役員としての権限を行使できる状態ではなかったため、さほどの混乱はない。当面名誉職である会長は空席とし、結城家からは新たに紗耶が顧問という形で納まることで、他の役員たちにも根回しができていた。

「では、全会一致でこの案を信認いたしたく思います。ご賛同いただける皆さんの挙手を…」
「その前に、皆さんにお話があります」
紗耶は徐に手をあげて発言を求めると、椅子から立ち上がった。
「折角ですが、私、結城紗耶は、この役職を辞退させていただきたいと思います。従来、グループの役員は結城本家から複数選ばれていましたが、それを慣習にする必要はありません。
結城グループは今までどおり、現在の社長である結城圭市をトップとして、その下で一元化され、統率されて然るべきでしょう。それ以上に結城の家が関与する必要はありません」
「しかし…」
役員たちが一斉に驚きを示し、さざめきが起きる。だが、彼女にはまったく動じる気配がなかった。
幹部役員たちの中に、未だ圭市が全権を握ることを快く思わない一派がいることは予め分かっていることだ。その連中は、何とか帰国した紗耶を経営に携わらせ、圭市の権限を狭めようと画策し、これまでにも何度も強く彼女に働きかけていた。
その彼らが紗耶の意向に反発するのは必至で、抵抗はすでに織り込み済みだ。

「もちろん、現在私が保有していることになっている当社の株式はそのまま結城家が所有します。ただし、その所有者は私ではなく、夫、結城圭市となります」
「紗耶、それは…」
彼自身も予想していなかった事態に、圭市が戸惑いの表情を浮かべた。
「これで彼は名実共に結城のオーナーであると同時に当家の当主となります。ただ、グループを動かしていく上で、皆様のご協力は不可欠なものです。これからも会社の運営に一層の尽力とご鞭撻を賜りたいと存じます。以上です」


結局最終的には紗耶が意見を押し通し、彼女の目論見通りに新たな体制が組まれることとなった。
散会後、会議室を埋めていた役員たちは三々五々に退室していき、最後に紗耶と圭市が残された。

「ごめんなさい、相談もなしにこんなことを決めてしまって」
「いや。だがさすがに驚いたよ。しかし君は一体何で…」
「もうすでに内々には、弁護士と税理士とは打ち合わせてあるの。譲渡時に税制面で多少のリスクが発生する可能性があるけれど、それ以外は問題ないそうよ」

紗耶は圭市の言葉を遮ってそれだけ言うと、机の上に残っていた資料を集めてブリーフケースに収め、ドアの方へと歩き出した。
「違う。そんなことを聞いているんじゃない」
圭市は彼女の腕を掴むと、自分の方へと振り向かせた。
「先日の遺産といい、今日の会社のことといい…どうして自分の手元に何も残そうとはしないんだ?」


数日前、紗耶は親族たちの前で爆弾発言をしていた。
結城家の名義上の当主として、彼女は祖父から譲られた遺産に加えて、父親の遺産の相続人にもなっていた。そのうち屋敷の土地家屋や都内にある複数の不動産、高価な宝飾品や美術品、それに加えて預貯金をそっくりそのまま夫に譲ると宣言したのだ。もちろん、将来二人の間の娘である美優が、父親からそれらを相続することを前提にしての話だ。

そして今日突然明らかになった、保有株式の譲渡。
それらはまるで、彼女が自分の身辺整理をしていると受け取られてもおかしくないような状況だった。

「私はいずれあちらに帰らなくてはならない身なの。いつまでも画廊を放っておくことはできないわ」
「だが、いつかこっちに帰ってくる可能性も考えて、財産を残しておくことはできるだろう。何も今すぐにすべてを清算する必要はないと思うが」

圭市にはまだ伝えていなかったが、紗耶は二度と日本へは戻らない決意を固めていた。今回の帰国の一番の目的は娘の幸せを確かめることだ。それが果たせた以上、自分をここに引きとめるようなものを残すことは物理的に、そして精神的にも賢明ではない。

自分の持っていた地位財産をすべて圭市に譲り渡し、彼の結城におけるポジションを確固たる物にした今、本来ならばこちらから離婚を申し出るべきなのだろうが、それだけはどうしてもできなかった。

こういう思いを「未練」というのかもしれない。
別離を経てからずっと、気持ちは揺れ動いてきた。
一人になった寂しさに、自らの無軌道な行いから目を背けて圭市を恨み、憎んだ時期もあった。だが、それでも自分の中から完全に彼の存在を消し去ることはできなかった。

それは、いつも心のどこかで彼を求め続けていたから。

17歳の彼女は、女性として成熟できないままに彼と結婚した。そして周囲から背負わされた責任の重圧に負け、自分を見失ってしまった。
だが、それでも彼女は本能で自分の寄るべき場所を感じとっていた。それが圭市だったのだ、と今ならば分かる。
その感情を自覚できずに持て余し、思いを言葉にすることができなかったのは、彼女の人間的に未熟な、幼さゆえの頑なな心の表れだった。

その後年月は過ぎてゆき、紗耶は成熟した大人の女として、再び圭市に相見えることになった。時間と共に積み重ねた経験は間違いなく彼女を賢く、しかも強かな女性へと変貌させていた。
しかし、それでも彼を思う気持ちはそんなに簡単に断ち切れるものではなかった。ましてや、彼の方からも強く復縁を求められている状況にあって、別れを切り出すことは限りなく難しかった。
状況的に、そして何より感情的にも。

だから紗耶は最後に一つだけ、彼に甘え、自分にわがままを許した。
最後の瞬間まで、自分が圭市の妻であり続けたいと願うことを。


「これらは全部、私が持っている必要のないものよ。今はあなたに預けるけれど、後々には美優が受け継ぐものなの。私よりもあなたが管理していてくださった方が賢明でしょう」
「しかし」
「私はあなたに…いえ、あなただからこそ、信頼してすべてを託せるの。実業家として、父親として、そして夫として、何をどう動かしていくことが良い結果につながるかを、一番よく知っているのはあなただもの」
紗耶はそう言うと、引き寄せられるように彼の肩にもたれかかった。
圭市の腕が自然に彼女の背中を抱き寄せる。

そう、あの時もこうして素直に彼に寄り添うことができたならば、二人の行く末にはもっと違う未来が開けていたのかもしれない。今思っても、それだけが悔やまれる。
だが、過ぎた時間を巻き戻すことはできない。今更考えてもどうにもならないことなのだ。

過去は振り返らない。
見つめるのは未来だけ。
たとえそれがどれだけ短く、限られていたとしても。


紗耶は決然と顔を上げると、求めて止まない男の顔を見つめた。
ここで過ごすのもあと僅か。少しでも多くの時間、彼の姿を見て、声を聞き、この体に触れていたいと願った。

最後の…最後の瞬間まで、彼のすべてを憶えていられるように。

「圭市さん、お願いがあるの」
紗耶に優しい笑みを向けながら、圭市はその続きを促す。
「私に?」
「ええ。もう一度、あの別荘へ私を連れて行ってほしいの」
「別荘へ?」
圭市が怪訝そうな顔をする。
「そう、行きたいの、あの迷いの森の別荘へ。二人だけで」




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