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 迷いの森 

 第六章   消せない過去と未来への扉  4 



真っ白な壁と病院特有の消毒薬の匂い。
廊下を歩きながら、紗耶は軽い眩暈を覚えた。
流産しかけて入院した病院や、その後に入った保養施設。そして、病を宣告された時も同じ様な匂いがしていたことを思い出す。
ふっと気が遠くなり、足元がふらついた。

「紗耶、大丈夫か?」
横から伸びてきた腕に支えられるようにして、彼女は病棟へと向かうエレベーターに乗った。



電話を受けた後、二人は急いで身支度を整えると、帰郷するべく車に乗り込んだ。
「今度こそはダメだろうと言われている。今のうちに会っておかないと後悔するのではないか?」
その道すがら、運転席の圭市は隣に座る紗耶に説得を試みようとする。
しかし、紗耶は頑として彼の言葉に首を縦に振らない。
「あの人を父親だなんて、思ったことはないわ。元々私には父親なんていないも同然だった。今更会ったところで、どうにもならないわ」
「でも、君の親であることには違いないだろう」
「生物学的にはそうかもしれない。いえ、時々私の父親は本当に彼なのか疑ったこともあったくらいよ。私にとってあの人はその程度の関わりしか感じられない間柄なの」
圭市は前を見つめたまま溜息をつく。
「だが、美優はそうは思っていない。あの子にとって、会長は普通のお祖父さんなんだ」

宗一朗は、美優が生まれてすぐに体と言葉が不自由になった。そのせいもあり、あまり頻繁に行き来するような付き合いはなかったが、それでも祖父は彼女にとって数少ない母方の親戚だった。
年始の挨拶などには宗一朗の所へ親子で毎年出向いたし、美優の祝い事には必ず祖父から何がしかの心づけが送られてきた。もちろん、自由のきかない彼がそんなことを自分でできるはずもなく、周囲の者が気を利かせて手配したのだろうけれど。

「美優は君たちの確執を知らない。いや、薄々は感づいているかもしれないが、彼女にとっては関係のない話だ。ただ、あの子にあらぬ疑いを抱かせないためにも、最後に一度父上に会っておいた方がいい」



圭市に連れて行かれたのは、病棟の上階にある特別室だった。
総一郎はかなり以前から意識がない状態が続いており、数ヶ月前からはここで器具に繋がれて、何とか命を長らえているといった状況だ。

ドアを開け、入口で躊躇う紗耶の背中を押すようにして病室に入れた圭市は、そのまま中へは入らず主治医の元へと話を聞きに行った。
悪いなりに何とか小康状態を保っている今、医師や看護師は一旦退出した後で、部屋には美優たちだけが残されていた。

「お母様」
呼びかけられて振り向くと、美優がベッド横の椅子に座っていて、側には彼女を守るように柏木が立っていた。
「美優、あなた、大丈夫なの?」
泣き腫らしたような目に涙を浮かべた美優は、立ち上がると紗耶に縋り付いた。
「お祖父様が…」
その背中を撫でながら、紗耶は娘の肩越しにベッドに横たわる男を見ていた。
やせ衰えた体に深い皺を刻んだ顔。髪はほとんど真っ白だ。
意識もなくただ眠り続ける目の前の老人に、昔の独裁的な父親の面影はどこにもなかった。

「圭市さん…」
室内に入って来た圭市は、紗耶の問いかけに、ただ首を振った。
「美優、お前は外にでていなさい」
「お父様、でも…」
「美優。最後に紗耶に…お母さんに、ふたりだけでお別れをさせてあげなさい。柏木、君もちょっと席を外してくれ」
彼の意を汲んだ柏木が美優を伴ってドアの外へと消える。圭市もそれを追おうと踵を返した。
「圭市さん、これは…」
戸惑う紗耶の呼びかけに、彼は振り返ると彼女をこう諭した。
「紗耶、このままだと君は一生父親の呪縛から逃れることができなくなる。君が許しを与えられる最後のチャンスだ。ちゃんと今のうちに気持ちを整理して、踏ん切りをつけておきなさい」


こうして皆がドアの向こうに消えた。
一人残された病室で、紗耶は久しぶりに父親と向かい合った。
最後にこうして正面から父を見たのは、結納の席だっただろうか。
威圧感のなくなった父は、あの頃より一回りもふた回りも小さくなったように思える。

「私は、あなたを許せるかしら?」
ベッドに横たわったまま、何の反応も示さない相手に、紗耶はひとり言のように呟いた。
結城宗一朗という男がいなかったら、自分はもっと違った人生を送れたかもしれない。彼によって狂わされた人生は、紗耶をどん底まで突き落とした。
そのことで、今までどれだけこの男のことを恨んだだろう。
だが、彼の存在がなければ、結城紗耶という人間はこの世に生を受けなかった。母の甚大なる犠牲を伴ったにせよ、この身体を流れる血の半分は彼から譲り受けたものであり、それはどう足掻いても変えようがない事実だ。
そしてまた、彼がいなければ圭市と出会うこともなかったかもしれない。そうなれば結果として、美優を授かることもなかっただろう。
何とも皮肉な因縁だった。

彼の存在を必要悪と考えれば、この成り行きは避けられないものだったのかとも思える。しかし、このまま宿怨を持ち続けていれば、それはまたどこかで別の歪みを生み出すことになってしまうだろう。
因果の小車は、誰かが、いつかどこかで断ち切らなければならないのだ。

「すべてを許すとは言えないわ。私はそこまで心の広い人間ではないから。でも、もうあなたを恨むことはしない。あなたから自由になるために、私は憎しみを捨てましょう」

そこで彼女は病室に入ってから初めて肩の力を抜き、ふっと息をついた。
「それが、あなたに対して私ができる唯一の許しだと思えるから。そうでしょう…お父さん?」



宗一朗はその夜、息を引き取った。
一旦帰宅する遺体には紗耶と美優が付き添い、圭市は密葬の準備に追われた。
翌日の通夜とその後の密葬は、親しい親類縁者と家族だけで行い、10日後に本葬となる社葬が執り行われることが決まった。


「紗耶、少し休んできた方がいい」
密葬が終わり、荼毘に付された父親の位牌を持ったままぼんやりと佇む彼女に圭市が声をかけた。
この数日間、彼女は父親の葬儀の喪主として、ほとんど休む間もなく動き続けていた。
父親に対して、その死を悼んで泣くほどの思い入れはなく、かといって最後の様を笑い飛ばせるほどの憎しみもない。死というものは、こんなにもあっさりと人の心まで虚無にしてしまうものなのか。
積年の恨み辛みは行き所を失い、残されたのはこの35年間の軋轢を葬ったような虚しさだけだった。


「これが終われば本葬までしばらくゆっくりできる。一度ホテルに戻って荷物の整理をしてから屋敷に滞在した方がいいだろう」
美優の発表会の日から丸4日。紗耶には荷物を取りに戻る時間さえ与えられなかった。
「そうね。これからのこともあるし、そうさせていただくわ」

葬儀が終わる前から、すでにあちこちで相続の話が囁かれ始めている。
この機会に取り分を狙ってくる不遜な輩もいるはずで、それらにどう対処するか、事前に対策を考えておく必要もある。
「とりあえず、密葬が終わったら今夜はホテルに戻らせて。明日、出直してくることにするわ」




「では、紗耶様。明日の朝、迎えに参ります」
「ええ。お願いします」

密葬のあと、紗耶は葬儀場から直接柏木の運転する車でホテルへと戻ってきた。
車を降りると、そのままホテルのエントランスへと向かう。
そこには連絡を受けたエドワードが心配そうな表情で待ち構えていた。

『マリア。大丈夫かい?』
顔色が悪く、ふらつく彼女をエドワードが心配そうに見つめる。
『ええ、何とか。でも、もう少ししっかりしていないと。まだ柏木さんがいるでしょう?』
その言葉に、後ろを振り返ったエドワードの視線が、車の側に立ち、こちらを見ている柏木の姿を捉える。
『分かった。それじゃぁすぐに部屋に戻ろう』
彼はそれだけ言うと、紗耶の後ろに回り、巧く姿を隠すようにして体を支えた。
そして乗り込んだエレベーターのドアが閉まった瞬間、紗耶は彼の腕の中に崩れ落ちた。

『マリア!』
『大丈夫よ、エディ。薬を飲んで…少し休めば』
『そういえばあなた、ここのところずっと薬を飲んでいなかったんじゃないか?あれほど医者から無理をしないように言われているのに』
『すぐに帰るつもりだったから、余分に持っていかなかったのよ。こんなことになるとは思っていなかったから、仕方がないでしょう』

目的の階にエレベーターが到着すると、エドワードは軽々と紗耶を抱き上げて大げさに眉を顰めた。
『今度そんなことをしたら、何が何でも即刻アメリカに連れて帰るからね』
その過保護な発言に、思わず紗耶は苦笑いを浮かべた。

『心配のし過ぎよ、エディ』
『いや、あなたが自分で自分の寿命を縮めるようなことをしているのを見て、放ってはおけないからね』

その言葉に、紗耶が力なく笑う。
『大丈夫よ、エディ。私にはまだ、まだやっておかなくてはいけないことが残されているの。それを終えるまでは…たとえ石に噛り付いてでも生き延びてみせるから』




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